写真に関連することが3つあります。一つは遺影、もう一つは数か月後に見つかった1枚の写真、そして身元確認のための数百ページに及ぶ写真でした。
3.11以降、2人の遺体は比較的早く見つかりましたが、3人の身元を確認することはできませんでした。困ったことに5人の写真がどこにもありません。南三陸、仙台、東京の親戚や知人に問い合わせても、遺影にできるような写真がみつかりませんでした。
「しょうがないな」。4月頃、そんなことを想っていたのも無理はない状況でした。津波で街中のほとんどのものがなくなり、親族3人が見つからず、未だ墓がなく葬式の目途も立たない状況だったので、写真のことはほとんど諦めていました。
ただ1枚、みんな揃って「いい顔してたな」と記憶に残っている写真がありました。それは父の米寿のお祝いに町長含めみんなで撮影した写真でした。それが実家茶の間に掛けてあるのを想い出していたのです。しかし見つかるはずはありません。
5月のある日だったか奇跡的に助かった店員のフサエさんから、その写真データを知人が持っていると聞いてビックリ。そんなこともあるのか・・・と思い、後日データを受け取りました。「いろんなことが起きるもんだなあ」そんな感慨にふけることがしばしばでした。
・・・また記憶が蘇ってきました。。
それから数か月後、初めて興梠さん(放才能)、隆夢さん(ソーシャルイラストレーター)と南三陸に入り、フサエさんの紹介で温熱療法に訪れた家は、なんと写真データをもっていた方のお宅でした。その家のおばあさんが寝たきりだったので、温熱療法の要請を受け初めて訪れた家でした。元々フサエさんのお知り合いでしたが、本人も写真のことはすっかり忘れていたようで、訪問してからそのことを聞きました。
私はビックリしてその方にお礼をいい、私が記憶していた「みんないい顔」の写真だったけど諦めていたことをお話ししました。
奇遇です。
その方の家族で当時中学生の女の子が、ソファに寝転んでテレビを観ていました。ずっと静かに黙っていたのですが、しばらくして何やら私たちの話が可笑しいらしく明るく会話が弾み、楽しいひと時となりました。
車に乗り込む直前にフサエさんが、震災後地元の子どもたちの中にもずっと精神的に不安定な子が多く、余震が起こる度にとても怖がったり学校を休むことも多かったり、心のケアの必要性を教えてくれました。
ふと、さっきの明るい子の笑顔と静けさが気になっていました。
子どもたちみんなが、この体験をしたことに自信をもち誇りに思い生きてほしい。
それが一番の願いです。
つづく。