最近「もし名前がなかったら…」と、ふと想うことがあります。
知人と話していて「もし名前がなかったら、自分は誰なのかどうやって伝えることができるだろう?」と聞いてみたら、いずれの相手も「そんなことを考えてるんですか?」とびっくりされました。
「自分は誰か」を伝える場合に名前があればとても便利で、名前を伝えれば事足りることが多いと思います。
つまり、それでわかったような気になっているということなのでしょう。
でも名前がなかったら「自分は誰で何者なのか」、伝えることはとても難しくなります。
記憶喪失になった状態を思い浮かべてしまいそうです。
以前も触れましたが『14歳からの哲学(池田晶子著)』は、「自分とは誰なのか」という読者への投げかけから始まります。
このとても大切なことを一度も考えたこともなく生きてきた大人が多いので、皆さんには今の時期から考えてほしいと池田さんは語りかけています。
デカルトは「我思う、ゆえに我あり」と言いましたが、エックハルト・トールは「我思う、ゆえに我あり」と気がついたのが自分であると言っています。
それは思考の中にあるものではなく、もっと深いところの意識の中にあると言っています。
結局、自分が何者であるかを伝えることも理解することも難しいので、自分は何者でもないと思えてきそうです。
ある意味、それは正解なのかも知れません。
「全ては一つである」ともいいます。
あまり現実味を感じない言葉に思えますが「もし名前がなかったら」と考えてみることで、今まで考えたことのないような「自分とは何者なのか、自分と他との境界はあるのか、元々はどうだったのか、もしかして個というものは存在しないのか…」などと考えるきっかけになるかも知れません。
私は『自分らしく生きる』ことに気をつけて生きていますが、こんなことを考えていると全てぶっ飛んでしまいそうです(笑)。
それはそれでいいのでしょう。
花はただ咲いているだけで美しい。
そう思っている私がいます。