『人間はすべてを選択している』という文字が、突然私の眼の中に飛び込んできたのは30代前半のことでした。
確か、普段通り朝刊を読んでいたら、2面の右下の広告の文字が飛び込んできました。何の広告だったのか憶えていません。
それから5~6年経ったある夏の日、私は小田原にある『はじめ塾』の夏合宿に参加していました。それは寄宿塾の公開合宿で、小田原に近い山北町の山中の古民家で行われました。『はじめ塾』は、不登校の児童などが共同生活をしながら学び合うところです。
2日目の朝、当時の和田塾長が朝のお話をされました。みなさん正座をして聞いています。
その日の和田塾長のお話は、以前ご自分が修行をされた時のことでした。私はそのお話をただぼんやりと聞いていました。
どんな修行かというと、何かをする前に必ず何をするのかを言葉で発してから行うというものです。つまりごはんを食べているとすれば、「箸をもちます」といって箸をもつ。「茶碗をもちます」といって茶碗をもち、「ご飯を食べます」といってご飯をたべるといった具合に、いちいちすべてのことを口にしてから行動するというのです。
私は他人事のように、ずいぶん面倒な修行もあるもんだなという感じて聞いていました。
しばらくして、ふと『人間はすべてを選択している』という言葉が頭をよぎりました。
そして、「あっ、選択しているというのはこういうことだったのか」と、妙に納得している自分がいました。
その時私は一つのことに気づいたようです。
何に気づいたかというと、「人間は『無意識のうちに』選択している」ということにです。それもほとんどが無意識かも知れないと。
先ほどの修行のように言葉を発してから行動することで、自分のやることをその都度意識することになります。すると、かなり多くのことを意識しないまま行動していることがわかります。
それまで私は、ほとんどのことを自分で考え決めて行動してきたとばかり思っていたんですが、どうもそうではなく無意識のうちに選択し行動していることが如何に多いかがわかってきました。ということは、頭で考えて行動することから、もっともっと自分の直感や何となくという潜在意識に従って生きていくという意識転換をすべきだと強く思ったのでした。
この時のお話によって、その数年前に突然眼に飛び込んできた『人間はすべてを選択している』ということが、やっと自分の腹に落とし込めたような心地よい感じになったことを憶えています。
和田さんの著書に『観を育てる』という本があり、サブタイトルが『行きづまらない教育』とあります。なぜかその後10年ほど、私は自室の書棚に置いてあるこの本を読むことはなかったのですが、その間私なりの『人生観』や『ビジネス観』の輪郭がくっきりと浮き彫りにされてきたような気がします。
不思議なものです。
私の感覚では、その輪郭のようなものが『自分らしさ』だと感じています。
ちなみに30代の頃、私は興梠さんに「ある日突然『人間はすべてを選択している』という文字が飛び込んできました」とお話ししたことがあります。すると興梠さんは淡々と「来ましたか」と一言(笑)。
すべてはなるようになっているようです。