共鳴する世界

12月1日に青沼かづまさん出演、ナガノユキノさん脚本・演出の『ヒルダのレタス畑』を拝見しました。正直なところ演劇を観るようになって、これまでの私の人生にはなかったページが開かれつつあるように思います。
開演前から会場は凛とした佇まいをし、舞台と客席との一体的な雰囲気がありました。開演後、それは一気に『共鳴』へと変わりました。いつのまにか会場は、超満員となっています。

『ヒルダのレタス畑』は、人間の素晴らしさと愚かさを私たちに語りかけてくれます。『見習い天使』もそうでしたが、ユキノさんがインタビューで言われていた「私たち人間はこんなもんじゃないですよ、もっともっと素晴らしい!」ということを、私たちに直接伝えてくれるとともに、世界中で起きている戦争や紛争、テロ、核兵器、原発等の社会的課題・問題に対し力強いメッセージを発信されています。
『社家(シャカ)』と通じるものを強く感じます。

今この原稿を書きながら、ふと気がついたことがあります。
『ヒルダのレタス畑』を観ていた時と同じように、いつも私たちは何らかのかたちで『共鳴』し合っているはずなのに、なぜ日常ではあの時と同質の豊かな『共鳴』を感じることが少ないのだろうか?それは何が違うなのだろうか?その違いはどのような違いとなって現れてくるのだろうか?

日常における『共鳴』は気づかないほど微弱なものだったり、波長が合わず少し乱れが生じていることが多いのでしょう。
例えば、波長が合い調和することで、それは『共感』が表出される。また波長が乱れれば、それは『反感』のようなものとなって表出されるのではないでしょうか。
私たちのいる環境というのは、このような細やかな波の伝わり方によって心地良くもなり、圧迫感や嫌悪感を感じることにもなるのでしょう。そう考えてみると、 私たちが注意深く、感覚を研ぎ澄ますべきところは『共鳴する波』のようです。
それは特に私たちが発する声や音、表情、心の状態などであり、その響きや伝わり方、受け取り方の違いによって、地球環境や社会状況が大きく左右されることになるというか、なっているということです。表層化する時間やかたちは様々だと思いますが、私たちが事象としてみているものは人間の思考や感情の総体が表層化したものなのかも知れません。
そういった見えない波の関わりが如何に大切か、演劇を拝見してあらためて気づくことができました。
感謝です。

公演直後にナガノユキノさんからお誘いがあり、その場で関係者の皆さんと歓談することができました。今回の公演は出演された方々にとっても新たな発見があり、それぞれの方が新たな境地に到達された様子でした。
私もユキノさんの鋭い質問を受けながら(笑)、3.11による「千年に一度の機会」とはどういうことか、『社家(シャカ)』の中の「心底楽しい」とは単に「楽しい」と何が違うのかなど、一つひとつお話しする機会を得ました。 こうやって共通の理解が増えていくことで、『共鳴』しやすい環境ができていくように思えてきました。

なるほどです。。。