天からのメッセージ

 

21歳の頃の『何もしないということ』と入社後の福岡での『こころのもちよう』の前後に、実は私の人生を左右する2度の大きな分岐点がありました。

(こうやって想い出してみると、色々なことがあった人生です。笑)

2つの分岐点の共通点は、“いのち”に関わることでした。

 

まず就職する年の1月2日に、いわゆる自爆事故を起こしました。

一言でいうと居眠り運転でしたが、当時はシートベルトを締める義務がなかったため事故によるダメージは想像以上でした。

 

現場は長~い下り坂。

緩~い右カーブを直進し、そのままガードレールの端からぶつかりポールを抜いて田んぼに飛んでいきました。

というか寝ていたので、目が覚めたら田んぼの中にいました。

気がついたらフロントガラスを頭で割っていました。左前頭部が、ざらりべっとりの状態です。

もの凄い音がしたらしく、数十メートル離れた家のおばあさんが「鉄砲のような音がしたけど」と驚いて出てきました。

 

3年半後、紹介されて久留米にある整骨院に行ったところ「昆野さん、首の骨が3か所ズレてますね。3回音がなります」と言われ、一気に「ボキ、ボキ、ボキ」。

「どおお」っと頭から血が流れ落ち「助かった」と、私は呟いていました。

後から思うと、その3年半私は全く使いものにならない状態でした。

 

整骨院で治療する半年前つまり入社3年目の3月から2か月間、私は急性肝炎で福岡の済生会病院に入院しました。入院4日後の看護婦の申し送りが「若いのにかわいそうに」だったらしいので、よっぽどだったのでしょう。劇症肝炎というヤツで、そのままあっという間にあの世に行ってもおかしくない状態だったようです。

私が“違う星”にいたのもその時です。

 

済生会病院に入院するまでに私は毎日病院を変え、済生会は4か所目でした。どの病院でも同じように「風邪の症状ですが、血液検査をしましょう」と血液を採り、結果は4日後ですのでそれまで様子を見ましょうと言われました。

私が病院を変えた理由は、「解熱剤を飲んでも熱が下がらないのだから、風邪のはずがない」というものでした。

その頃すでに、お医者さんをあまり信用していなかったようです。

 

結局、4か所目の済生会でも同様に言われたのですが、その日深夜0時頃に40.5℃の熱が出て再度済生会に行って点滴を打って帰宅し、その2日後の月曜日の朝に外来で済生会に行った時が運命の分かれ目になりました。

外来の先生は「40.5℃もあったのに何故帰したんだ、緊急入院だ」と一言。

その3時間後、私は婦長から“絶対安静”を告げられました。考え事もしないように、寝返りもしないようにと。

後から聞いたら、外来の先生は肝臓の名医だったようです。

後に、美空ひばりが入院したのも福岡済生会病院でした。

言うなれば奇跡の連続でした。

 

そして退院してから、私の耳に繰り返し聞こえてくることがありました。

それは、「これでもわからないのか、お前は」という、どこからともなく聞こえてくる声でした。

それが、何度も何度も聞こえてきました。

 

その後私は、その“天からのメッセージ”に気づかされ、少しづつ少しづつ浄化されて生きているような気がしています。

 

それが25歳の時。

それ以降『余生』と言って生きてきて、今は『余生』の方が少し長くなってしまいました(笑。