株式会社旅と平和代表の佐谷恭(さたにきょう)さんからのリレーインタビューは、アリク店主の廣岡好和さんです。
世田谷の松陰神社通り商店街とともに歩むアリク(「歩く」の古語)は『公園居酒屋』。公私の隔たりがなく人が集い語らい憩う、街と一体的に機能する素敵な空間です。
まず松陰神社にお参りした私は、通りを見渡しながらアリクに向かいました。
松陰神社
「歩きながら話しましょうか」と開口一番、廣岡好和さん(ヨッシー)。
「いいですね!」と私。
歩きながら熱く語るヨッシーの説明に耳を傾けながら、一方で私は3.11以前の南三陸にあった『おさかな通り商店街』のことを想い出していました。3.11で亡くなった長兄がいつも口にしていたことは、「街に賑わいがなければ、自分の商売もうまくいくはずがない」。もう5回目の3.11です。
そんな記憶とともに歩いていると、すれ違う人皆さんがヨッシーと親しそうに言葉を交わして行きます。
顔の見える商店街、いいですね。
歩いているだけでヨッシーの人柄が伝わってきます。(聞き手:昆野)
アリク正面
ヨッシー:ここがスタート地点です。この空き地から始まりました。
3年前に仲間4人が集まり、この空き地で何かできないかなと何となく話をし始めたんです。『この空き地に人が集まり、そしてこの街に人が流れていく』そんなイベントをしてみようと。
スタート地点の空き地。左隣が畑
――何がきっかけでしたか?
ヨッシー:3年ほど前から築地で働き始めて昼頃に帰ってきて街を歩くようになり、あらためて商店街を利用する立場になった時、「やっぱりいい街だなあ」と思い始めていました。そのうちすぐそこにある松陰会館という不動産やガスを扱っている会社の3代目と知り合い、飲食店の仲間2人と4人で「商店街を賑やかにしたいよねえ」「いいねえ」なんて話していました。
当時は、子どもをもって間もない頃だったこともあり、子どもたちと一緒に商店街を含めて成長していけたらいいなあと思っていて、築地の仕事が昼頃に終わるので、その後集まっていろんな話をするようになったんです。
――スタート地点の空き地ではどんなことをしたんですか?
ヨッシー:初めはバーベキューとかして、何回か子どもと大人が一緒に遊べるようなイベントをしたり、外部の企画で親子向けのイベントを共同で手伝ったりもしました。ここに人を集めることはできたんですが、排他的な感は否めなかったなあ、と。
だからここに集まった人が商店街に流れるようにしようと思って、イベントを企画したんです。商店街の知人の店の軒先や、店内を貸し切ったりという。可能な範囲で民家や商店を一軒一軒挨拶して回りました。
――アリクを開いたのはその頃ですか?
ヨッシー:一軒一軒挨拶していたら、ちょうど今のアリクの大家さんと会ったんです。その頃アリクの場所は花屋さんで、半年後に花屋さんは店を閉めるのでその後にどうかと言われました。そういうことがきっかけで街との関わりが深まり、何かやろうという気持ちも強くなっていきました。だいたいこんな距離感や規模感で、ここで遊んでいるとあっちの方でもでも何かが起こるという感じがいいです。オフィシャルなイベントだとそうはならないでしょうね。
そしてこういう距離感で同世代の人たちが知り合っていっちゃうんですよね。結果的にそうなるんです。ですから私の感覚も、街との関わりの中で店をやらせてもらっているという感じです。
――もしかして子どもさんが産まれてから独立されたんですか?
ヨッシー:実は子どもが産まれた時は、ちょうど全く仕事をしてない谷間だったんです。築地で働く直前の出来事でした(笑)。
――え?無鉄砲さは、もしかして佐谷さん以上ですね(笑)。
ヨッシー:店をもったのは子どもが産まれて1年ほど経ってからで、今まだ2年です。
突然、「あ、よしこさん」とヨッシーが自転車の女性に声を掛けました。何やら、その女性もこの商店街に店をもちたいと空き店舗物件を探しているらしいのです。皆さん楽しいところ面白そうなところに集まってきたいんですね。
――このせんべいは何ですか?(アリクの店頭に並ぶせんべいを指して尋ねると)
ヨッシー:『瓦せんべい』。江戸時代からやっている銀座の老舗のせんべい屋さんで、その息子が友人なんですが、以前から銀座以外の街にもう一店舗開きたいと言ってて今度アリクの斜め向かいに入ることになったんです。これも松陰会館さんの協力を得て。
アリクせんべい
――その右隣りも新しいですね。
ヨッシー:そこはアリクより先輩ですね。その上は大家さんです。
――(アリクの目の前の店が珍しくシャッターが下りている)ここは何ですか?
ヨッシー:今日はお休みなんですが、焼き菓子屋さんです。フランスで修行して来た30歳くらいの方で、若いお客さんに人気がありすごく賑わっているお店です。
こっちは老舗のおでん種屋さんで、老舗のお店と新しく入って来るいろんなお店が共存してるんです。アリクの隣はおしゃれな本屋さん。本屋さんはアリクの1年先輩で、さっき通って来たおしゃれなカフェのオーナーが「一緒にやろうよ」と声を掛けてやってきたんです。カフェのオーナーは建築の設計デザインをしているので、この本屋さんの内装も手掛けています。
――なるほどカフェと雰囲気が似ていますね。仕事も循環しているということですね!
ヨッシー:そうなんです。松陰会館も不動産以外にリノベーションできるチームがいるので、自社の物件をリノベーションしてカッコよくして紹介したり、賃貸物件を一緒にDIYしてみませんかといった提案もしています。
単なる不動産の仲介ではなく、この街を注目してもらえるようにするための働きかけをしている人たちで、他のお店の人たちもそうし始めています。
――元々あったお店の人たちも何となく変わり始めて、そういう気運が高まってきているんですね。
「こんにちは~、どうぞどうぞ」とヨッシー。居酒屋は仕込み中ですが、アリクの店頭商品を買いに来たお客さんに挨拶。街や人との関わりの中でアリクやヨッシーが存在していることが、次から次へと交わす挨拶や笑顔を見ていると手に取るようにわかってきます。
店頭の新鮮野菜
アリク前の通り。中央がアリク
月一回の『のみの市』
――いいですね。すべてがつながっているということですね。佐谷さんの旅が平和やpaxiにつながっているように。
日本人は我慢をして生きることを美徳に感じながら、結局は不平不満を口にしたり、ストレスを溜め込んだりしている人が多い。それは反転してみると、つながっているということや影響し合っていることを意識していないということ。自分から孤立を招き入れ、閉塞感に苛まれている大人がとても多いです。
そんな大人が多くては、子どもたちが楽しく生きることに躊躇してしまいますよね。
ヨッシー:そうですね。子供が産まれて3年目で、急速に子どもに対する関心が自分の中でも高まっています。
――『未来』というと漠然としますが、子どもたちの世代という考え方に立てるとすごく実感が湧いてきます。だから次世代を見据えて行動することには共感が得られやすいのでしょう。
ヨッシー:いろんなことを心配しなければならない時代に子どもが産まれ、(原発事故の問題など)本当か嘘かもわからない、あるいは隠されてしまうようなことがあり、半信半疑な気持ちになりがちな状況にいながら、私はこの街で生きていこうと決意することができました。それほどこの街は気持ちがよかったんです。
そして夢だった『職住接近』も実現しました。
――ところでヨッシーはどんな子どもさんでした?
ヨッシー:いつ何をしていてもバラバラというか、それぞれ違う人といましたね。登下校や休み時間、クラブ活動などの時も決まった人やグループではなく、いつもそれぞれバラバラでした。
――人見知りしないというか、誰とでも区別なく一緒でいられる子どもだったんですね。夢はありました?
ヨッシー:サッカー選手です。本当になれると思っていました。周りがあきれるくらい、絶対無理と言われたけど(笑)。でも本気でした!その後高校卒業する時にバーテンダーという職業に憧れをもちました。近所にあったホテルの専門学校にバーテンダーコースとういのがあったので、その学校に入りましたが授業はパッとしなかったですね。でもいいお店に行ったり、バーテンダーのバイトもしました。
例えば失恋したお客さんに出すカクテルは、『処方』なんですよね。「これどうぞ」と出して「おいしい、よかったわ」なんて、それがカッコいい(笑)。多分未だに自分の中では変わってないけど、どうも焼酎がばっドボドボってやった方が自分には合っているなと感じます。
(突然人が入って来ました)
「この間酔って覚えてないんだけど、オレ、完全に出入り禁止ですか?それとも当日限りですか?」
「当日限りです」とヨッシー。
「ああよかった、ごめんなさいね。今日は『戦争法案反対』の署名をいただきに来たので、是非ご一読ください」と言って風のように去っていきました。
ヨッシー:いきなりこんな感じです(笑)。開かれた場なんですよね。
私が生まれ育ったのは千葉市の稲毛というベッドタウンで、どんどん友達が転居して出ていくんです。故郷という感覚がなかった。だから職住一体や接近に憧れていました。親父は眼鏡屋をしていたけど家から店まで距離があったので、親父がどういう人でどういうことを考えているのかわからなかったんです。
――ああ、なるほど。私も自分が会社員になった時気づきました。これは『サラリーマンの悲劇』だと。商売の家で育った私には、親の働いている姿を子どもが見れないのは言葉では埋め尽くせないものがあり、社会全体にとってはものすごい歪となって現れるだろうなと。就職してすぐにそう感じました。
最初の仕事はバーテンダーですか?
ヨッシー:最初はホテルマンになって、入社1年目から要人の相手をしなければならなかったりで、お構いなしに一流のサービスを求められる。すごいプレッシャーでした。
「これをやり続けるのかなあ」という感じでしたね。そうしたら約1年でホテルが倒産して買収されたんです。熱海にある初島クラブというホテルでした。20歳の時です。
――その後は?
ヨッシー:千葉に戻って、山小屋みたいな『地球料理』という変わったお店で仕事をしました。「お金いらないから、勉強させてほしい」と言って。何ヶ月か手伝っているうちに、親父が眼鏡屋を閉めてしまい、姉も安定した仕事ではなかったし、母は専業主婦。家族全員が仕事をしてない状態になってしまい、さすがにまずいんじゃないかなと。しばらくお店とディズニーシーのペイント工事の現場を掛け持ちしましたが、身体が壊れそうになりお店を辞めざるを得なくなりました。
ディズニーシーのペイントの仕事は、芸大生から鳶の人たちなど多種多様な人たちがいて面白かったですね。ディズニーシーが完成するまで働いていました。
その後近所の工場で働きました。しばらく実家にお金も入れていましたが、当時付き合っていた今の嫁が煮え切らない僕を見て、「千葉にいてもあなたがやりたいことは何もみつからないよ、一緒に東京に出よう」と言われ千葉から出て東京に来たんです。25歳でした。
――奥さん肝が座ってますね(笑)。
ヨッシー:彼女から切り出してくれました。最初は代官山のいい感じのカフェで仕事をしたんですが、経営が立ち行かなくなり(単にそれだけではないと今では思えますが)オーナーの一存で畳むことになったんです。突然FAXで『閉店』みたいな感じで。「すごいな東京」っていう感じでしたね。
その後オーナーが、同所で次の店を出すので残してもらうことになりました。マネジメントのノウハウもなく包丁すらまともに握ったこともないもないのに、配属された料理人(いわゆるザ親方的な)の方と立ち上げから関わり、気付けば親方の若い衆になっていました。個人的にはこの経験が、短くも今の礎になったと思えるほど、身骨注いで仕事感を教わった1年半でした。少数現場で立地・サービス・料理など、人と商品のギャップが開きすぎていたのだと実感していたが、到底敵わず、オーナーから『強制終了』が掛かりました。
――なかなかやりたいことにたどり着きませんね。
ヨッシー:料理や仕事に向ける一流の情熱に触れられただけでもラッキーでしたけどね。運がいいです。与えられる一方でしたが。
その後原宿のカフェであらゆる業種の人と出会えるきっかけを自由に挑戦させてもらいました。しかし料理への思いが拭えず、ステップアップしようと次は白金高輪の和をベースにした隠れ家に入りました。そこは料理・サービスのバランスが高く、何より自分が憧れていたりして、こんなお店があるんだという衝撃でした。働いている人たちもお客さん、特にオーナーが面白かった。
そういう中で、自分は経営する財力もなくマネジメントの勉強もまともにはしていないが、そこここである程度自由に働かせてもらって、よくいう“根拠のない自信”がついていたのだと思います。「人は自分に向かってくる」とか、そんな甘い考えですね、今振り返ると。
ともあれ独立に向けて、無謀にもしかしなぜか変な自信をもって会社を辞めようという話を何人かの友人に話していた折、店を立ち上げるから手伝ってくれと。自分の店と思って、一から挑戦できるチャンスがきた、すごい強運。
ただそこでは素材やお店のあり方にこだわり過ぎ、度量を越えたことをやり過ぎてしまい自分自身がパンクしてしまいました。たった一年足らずで・・・
今度は自分の中で『強制終了』。34歳、今から4年前です。
――だいぶ近づいて来ましたね。
ヨッシー:たくさんの人が料理を食べたいと応援してくれるのですが、その時は情けなくて人前に立てませんでした。震災が起こって一年内のことでしたね。
少し時間を空けようと思った時も数人から声を掛けてもらいましたが、子どもが産まれ子育てに注力したかったので仕事をする時間帯を朝から昼までとか変えてみようと思いました。それで朝4時から築地にバイクで通うことになったんです。
そこで牡蠣と出会ったんです。
こだわりの牡蠣
(突然、お子さん連れの女性が入ってきて)
「嫁です」とヨッシー。
「こんにちは、インタビューやってます」と私。
――お話しをお聞きしていて感じたんですが、節目節目でいろんな人が応援してくれてますが、それはなぜだと思いますか?何によってもたらされていると思いますか?
ヨッシー:人一倍心配され、期待もされているんじゃないかと思います。そして誰よりも僕が、相手に対してそうしているということだと思います。すごくマメでお節介なんです。野菜もって相手の家まで行って、いなければドアノブに掛けたり。行くんです、相手のところへ。舞台やライブ、展示やお店や事務所や家やどこでも。
――疲れませんか?
ヨッシー:すごい疲れる時がありますね(笑)。でも趣味が圧倒的に『人』なんですよね。それしかないですね。でも最近友達に不意にもらった本や、以前にも他の友達に転機となる折にいい本に触れ、昨今のキーワード“求めない”“減速して生きる”というを知り、今は意識して、様々な思いが過剰にならないよう心がけています。
――人が好きなんですか?私は嫌いな人はいないんですが、好きな人もいないような感じです。どちらも同じような気がしています(笑)。
ヨッシー:それは面白いですね!ああ、私は好きな人しかいないですね。好きな人としか会話ができないし、興味があるのは人だけです。
また突然、「お帰り、お絵かきしたい」と、今度は3歳の娘さん。
――ところで子どもたちに何を伝えたいですか?あるいはどうなってほしいですか?
ヨッシー:とにかくいっぱい大人と話をしてほしいですね。
人の気持ちを理解して、いろんな状況に合わせて対応できるようになって、人とのつながりが豊かであることに気づいてほしいと思います。そのためには大人が意識して子どもたちと接する機会をつくっていく必要があり、例えばあらゆる職種の人に話をしてもらい質疑ができる機会など。「なんでこのおじちゃんお菓子屋やってるんだろう」とか、わかるように。親父がなぜ眼鏡屋をやっていたのか、僕はわからなかったから。
――南三陸では中学生が授業の一環で商店の手伝いをしていて、震災後は仮設商店街や月一の福興市で手伝っています。あれいいですね。
ヨッシー:職業体験ですね。授業では『MUST』ですよね!
社会に出て溝に嵌った時、一人ではなかなか抜け出せないと気づいても手遅れにならないように。心の病のきっかけは、大抵の場合大人がつくってしまっていると思うんです。そういうことを意識して行動しなければなあ、とは考えてます。。
――ついこの間まで大人もみんな子どもだったのに、どうも子どもの気持ちや子どもの感じ方を忘れてしまっていて、大人は一気にわからない立場になっていますよね。私は自分の3人の子どもに対し、それぞれ3歳くらいの時に同じ実験をしてみたんです。それは一緒に散歩していて子どもが「疲れた、疲れた」と言ったら「じゃあ走れば」と。するとみんな喜んで走り出します(笑)。
同じ言葉でも大人と子どもが使っている意味が違っていて、その時の「疲れた」は「退屈」という意味なんでしょう。だから子どもの言うことを大人が真に受けちゃいけないし、本当はどういう気持ちでいてどういうことを言っているのか理解することが大切ですね。子どもについては、まったく偉そうなことは言えませんが(笑)。
ヨッシー:そういうことを子どもと接しながら大人も楽しめるんですよね。子どもに対しては誰でも叱っていいし、誰でも教えていい。そういう環境がアリクの中で培われてきています。それはこの街から始まった店だからそうであり、これからもそうありたいと思っています。『気持ちいい』を共有したいって感じですね。
――歩きながらのインタビューや突然の侵入者など、とても楽しい意外性のある場とお話しをありがとうございました。
アリク横のアーケード
日本では地方創生が大きなテーマになっています。30年以上前から全国至るところで、郊外のショッピングセンターに押されて古くからの商店街は『シャッター街』化していきました。
そんな中でヨッシーのいる松陰神社通り商店街の賑わいや雰囲気は、目を見張るものがあります。ここで生まれ育った訳でもないのに『すごく気持ちのいい街』とヨッシーは嬉しそうに話します。生き生きとして、まるでこの街に来たいと空き店舗待ちをしている人たちの行列が見えるようで不思議な感じさえしてきます。
「飲んでいかないんですか?」と、数時間前からずっと厨房で仕込みをしていた木村勲武さんが、嬉しい声を掛けてくれました。
「今日はダメなんですよ、残念です」と私。
気がついたらすでにアリクは開店していて、お客さんも入っていました。
コの字型のカウンターのアリク店内では、お客さんみんな顔が見えるように座ります。
顔の見える街、顔の見えるお店。
そこは、人が好きでたまらないというヨッシーの生き方が現れている場所でした。
中央右がヨッシーで左が木村勲武さん
■廣岡 好和(ヨッシー)さんのプロフィール
1978年7月4日生まれ
千葉出身
ホテルマン、ウェイター、ペインター、鉄筋コンクリート工場員、カフェ店長、料理人、神出鬼没・・・
~日本の牡蛎とおばんざいの居酒屋さん~マルショウ アリク(意》あちこち歩き回る)の店主