私の3.11。14:46

「私の3.11」を断続的に続けます。
私が「私の3.11」と言っているのは、みなさんもそれぞれの3.11を経験しその記憶があると思うからです。被害を受けなかった人でも、鮮明に記憶していることがあるはずです。
ある意味で、私たちは歴史的に稀な時代に生き共通の経験をしたといえます。「歴史的転換点に生きる」私たちは、歴史的な機会を与えられており、それを活かし切ることこそが私たちの使命だと感じます。

3.11の14:46、私は御徒町のスタバに一人でいました。2階の席を確保し1階カウンター前に立った時、大きな揺れを感じました。すぐに店員が自動ドアを開けロックを解除したのでまず歩道に出てみると、周辺のビルがすごい音を立てて揺れ、路上のクルマは縦に大きく揺れていました。数分後、ビル周辺には人だかりができていました。まるで怪獣映画の特撮でもしているかのような雰囲気で、ここにゴジラがいてもおかしくないなと思ったことを覚えています。

実は当日18時に、目黒駅近くの店で後輩2人と一杯やる予定だったので、どうやって目黒まで行こうかと諦めずに考えていました。事務所にはTVがなく世の中がどうなっているのかわからなかったので、目黒まで行けるものだと思っていたんですね。

その後も大きな余震が続き都心の電車が不通になっていることを聞き、私は帰宅できないことを察してコンビニで食糧を確保しました。16時頃だったと思いますが、まだコンビニの商品は普段通り陳列され客もまばらでした。しかし再度その1時間後に行った時は様相が一変し、陳列商品はほとんどなくなっていました。緊急時の1時間の差はとっても大きいですね。。。

TVがないので 情報源はYou Streamによるニュースと、深夜から繋がった東京在住の南三陸の同級生とのメールでした。
最初に観た津波映像は、仙台市内を流れる名取川の下流の自衛隊機による映像でした。映像を観ていた私は、すでに全員が避難した後に津波が来ていると思い込んでいました。というか、自分にそう思い込ませていたのかも知れません。流される家やクルマ、ビニールハウス等を観ても、全員避難しているからそこに人はいないと思っていました。観たこともない津波でした。。
地震から津波が来るまで少なくとも30分は掛かるはず。だからみんな避難していると、自分に言い聞かせていたのでしょう。

その後、南三陸の実家、店舗、兄2人の携帯に一晩中電話をしていました。しかしつながることはありませんでした。途中、何度か携帯が留守電に切り替わったので、つながりにくい状態なんだなと、また自分に言い聞かせていたのかも知れません・・・。

緊迫感を感じ始めたのは、翌12日2時頃の「南三陸は壊滅的らしいぞ」というメールからでした。

ただ、街が壊滅的であってもみんな避難しているはずで、避難していれば大丈夫。。。

結局、一睡もできないまま何10回も朝まで電話を掛け続けていました。
一睡もできずに朝を迎えたのは、長い人生の中で初めてだったような気がします。

つづく