記憶は伏流水のように

学生の頃、行きつけのJAZZ喫茶が何軒かありいつも一人で聴いたり、飲んだり、眠ったりしていました。

JAZZを聴きながら1時間ほど眠って起きて、また聴いている感じです。

そういえば以前何かの本に、日本ではJAZZが少し暗いイメージをもたれるのはJAZZ喫茶から広がったからだと書いてありましたが、確かに当時のJAZZ喫茶は会話をしている人などまったくいません。暗い店で一人ひとりが黙って聴いているといった雰囲気でした。

 

ある日、いつものように行きつけの店で聴いていると、急にすごくいい感じの曲が流れてきました。
不思議なことにその後ずっと憶えていたのは曲ではなく、その時かけていたアルバムのジャケットでした。
ジャケットは自転車の写真でした。
古い建物の前で自転車に人がひとり跨っていて、その横に何台か自転車が並んでいます。
それしか憶えていいません。

それから20年ほど経ちました。
ぶらっとCDショップに入ってみていたら、飛び込んできましたね、「自転車」が。
おお、何年ぶりだろう!私はすぐに買って、急いで帰宅しすぐ聴きました。

確かにいい、確かにいいんだけれど…、あの時何にあんなに感動したんだろう?正直いって想い出せません。

それからまた10年ほど経ったある日、私は無意識に口笛を吹いていました。
はてな、何の曲だったか?
そこで初めて気がつきました。GORDONだったかあ…。
あの「自転車」のsax奏者、Dexter Gordonでした。
そのアルバムの中の「Everybody’s Somebody’s Fool」。

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他愛もないことなんですが、私は30年ほどの時間をかけて熟成されたブランデーを飲んでいるような感じでした(飲んだことはありませんが)。

山に降った雨が伏流水となり地下水となって流れてくるまで、数10年から100年ほどの時間がかかるといわれています。
長いなが~い時間をかけなければ想い出せないことや気づかないこともあるんですね。

そう言えば私は、読書をしても片っ端から読んだ内容を忘れているような感覚になります。
いつも、それでいいと思って想い出そうともせずそのまま放置しておきます。
そうすると何かの出来事をきっかけに、何かの本で読んだことが想い出され気づかされることが多々生じてきます。

私が情報を得て記憶しているのは単に知識として蓄積し伝えるためではなく、記憶は行動するためにあり、私の中で放置され忘れていた記憶は必要に応じて行動する時に現れて来るようです。

そうやって必要な時に必要な情報が現れてくる状態にしておくことが、私にとっては大切なことであり、私の生き方は心身を日々浄化させる方向に向かって流れているような気がします。