佐藤芳秋さんへのリレーインタビュー

アリク店主の廣岡好和(ヨッシー)さんからのリレーインタビューは、株式会社松陰会館の三代目 佐藤芳秋さんです。
地方創生という社会的課題に対して、政府はこれといった政策を打ち出せないまま何十年か経ち、低迷する地域経済やシャッター街化する商店街が息を吹き返した成功例は数少ないでしょう。
郊外のショッピングセンターやコンビニ、薬局など、大資本の参入による客離れのみならず、後継者の有無等その街に暮らす人びとのそれぞれの事情があり、成功事例をもってきて金太郎飴的にやれるものではありません。

三軒茶屋から少し離れたここ松陰神社通り商店街も、世田谷とはいえ紆余曲折があって今に至っているはず。「この街の賑わいが何によってもたらされているのか」、私にとってとても興味深いものでありもう少し掘り下げてみたいテーマでした。

松陰会館という一風変わった社名を背負った三代目が、どうやらこの街の仕掛け人のようです。(聞き手:昆野)

――この何とも言えない社名の名付け親はどなたですか?

佐藤芳秋さん:祖父です。昭和35年に創業した時に付けた名前です。

――創業時からですか。この街の公共施設のような社名なので、地元の人たちから「やられた」と思われなかったですかね(笑)?

佐藤芳秋さん:祖父は世渡り上手だったようです(笑)。人からよく好かれる人でした。どうも創業した時は、どんな事業をするのかやることを決めていなかったらしいです。

――箱だけつくって中身がない?いいですね。面白いおじいさまですね。

佐藤芳秋さん:とにかく人が集まることをしたい。例えば結婚式場やタクシー会社など、地域の人たちが欲していることをやりたいと思っていたようです。

――貴社のウェブサイトを拝見したら、おじいさんは新潟のご出身でしたね。

佐藤芳秋さん:そうです。今の新潟市から一人で上京し、新宿のお風呂屋さんで三助をして人さまの背中を流していたそうです。そのうち経営者から気に入られてこの近くに今でもある『鶴の湯』をやることになって、お風呂屋さんビジネスで店舗を増やして行きました。さらに石炭ビジネスも始めて、いわゆる燃料系を主軸にした事業展開をしていきました。

創業した昭和35年頃は、これからの世の中の燃料系はガスが主流になっていくということでガス事業を始めようということになって、その際にすでにつくっていた松陰会館でプロパンガス事業を始めることにしたんです。

東京に一人で出てきて経済的に成功したので、祖父は新潟から一家を全員呼び寄せて一緒にこの街に住み始めました。
バイタリティがある人でした。

――ずっとこの街のこと、この街の人たちの暮らしを考えていた方なんですね。多分それはこの街の人たちに育ててもらったという感謝の気持ちを忘れずに持ち続けていたのでしょう。とても大切なことです。
多分二代目、三代目も、そのDNAを引き継いでおられるんでしょうね。二代目はお父さまですか?

佐藤芳秋さん:そうです。現社長の父の代から新たに不動産業に取り組みました。父は社会的な観点で物事を考える人で、雇用のしくみを考え色々なことを実践してきました。父が不動産業を始めた頃はバブル全盛期で地方から上京される人が多く、その需要に応じて行こうと物件数を増やして行きました。

今春オープンの松陰PLATで節分に豆まきを開催

――佐藤さんはまだ30代ですでに三代目を襲名していますが、ご兄弟はおられるんですか?

佐藤芳秋さん:姉が4人いて、弟が一人います。

――お姉さんが4人?ああ、ご両親はよっぽど男の子がほしかったんでしょうね。こりゃ大事に大事に育てられたんでしょう。
子どもの頃と比べて、街の様子はだいぶ変わりましたか?

佐藤芳秋さん:昔からの雰囲気はそんなに変わってないと思います。ここに暮らす人たちのマインドは変わらずに残っています。

――マインド、いいですね!

佐藤芳秋さん:若い人たちに人気のお店が増え、盛り上がっていますね。実は昔からこの街のお店は入りづらい店が多いんです。

――入りづらい、どういうことでしょう?

佐藤芳秋さん:「わかってもらえる人に来てほしい」という人が多いんです。来てもらえるのはwelcomeだけど、そういう人に来てほしいという気持ちが強いんです。どんどん売って行こうとかガツガツしていない。

――こだわりですね。そういう気風なんですね。

佐藤芳秋さん:元々神社や参道があるところなので、この街に来られる人は理由があって来られる。お参りに来られ、その参道にお店がある。元々自分たちだけで成り立っている訳ではないということを理解しているのだと思います。

――おじいさまのDNAと重なりますね。どこまでも濃い人ですね、おじいさま(笑)。

佐藤芳秋さん:実は70年ほど前に商店街を立ち上げる際に祖父が深く関わっていて、商店街の初代会長になりました。まだ現役の店主にも祖父を知っている方がいます。そういう意味でも僕に期待を向けていただいているようです。

――昨年の大河『花燃ゆ』は、主人公が吉田松陰の妹でした。伊勢谷さん演ずる松陰もとてもよかったです。だいぶ『花燃ゆ』の影響もあって賑わったのでは?

佐藤芳秋さん:街にとってはすごく影響がありました。人がたくさん来てくれました。特に土日の賑わいはすごかったんですが、お店を開けてないんです。ガツガツしてないもんですから(大笑)。

――お店を開けていないって、どういうことですか?

佐藤芳秋さん:日曜日は多くのお店が定休日なんです。商店街の人たちも「ずいぶん人がおおくなったね」なんて会話をしながら、お店を開けない。日曜日に開けたらめちゃめちゃ売れるのに(大笑)!

――マイペースですね、面白い。大切なものを守り続けているのだと思います。一過性のものに流されることなく、とても大切なものを。それが人なのでしょうね。
そんな中で、佐藤さんが心掛けていることは何ですか?

佐藤芳秋さん:子どもたちと何かやりたいということと、子どもが日常的にいられる街にしたいということです。そのためには子どもを含め、みんなが顔や名前を知っていなければいけない。おかげさまで、今この街では否が応にも顔が見えちゃう関係です。
実はこの辺りの住宅事情はファミリー層が住めるところが僅かで、あっても高価なマンションしかない。学生の時に住んでいて気に入った人たちも、結婚したら住めるところがないから出ていっちゃうので住宅事情を整えていかなければなりません。
ですから理想的には、大学に入学する時にこの街に住んで、結婚して子どもができてもこの街に住んでもらえるようにしたいですね。子供たちが集まれる、住みやすい住環境にしていきたいなあ。

ゆくゆくは自分たちの子どもも含め、商店街など街の中でいつも子どもたちをみられるようになっていければ、すごくいいですよね。どの子どもにも、悪い事したら大人がちゃんと叱れるような、そのためには大人が意識しないとダメだねと話し合っています。

そして僕自身の役割として心掛けていることは、昔からいる人と新しく入ってきた人と衝突が起きないように、うまく中に立つことです。新たに入ってきた人たちにも、これまで長い間携わってきた人たちがいるからこそ成り立っていることを理解してもらいたいと思っています。有難いことに段々気づいてくれる人が増えてきています。

商店街の公園をつかって水鉄砲ウォーズを開催

――先日、偶々見た佐藤さんのFacebookのコメント、結構つらそうなコメントでしたが(笑)。

佐藤芳秋さん:ああそうなんです。「よく思われないのは当り前なんです」

――それがよくわからないんです。

佐藤芳秋さん:必ず出てくるのが「オレは聞いていない」と、羨ましいのか妬んでいるのかちょっとしたことで背を向けちゃう。こんな小さい街で、そんなことしていても何にもならないのになあという思いがあります。

――そういう人は、男女年齢関係なく出てくるものなんですか?

佐藤芳秋さん:出てきますねえ。やはり包み込むようなしなやかさのある“女性性”って大切だなって感じますね。

――これからは楽しく“女性性”が発揮されることがとても重要になりますね。実は私は4人兄弟の四男で、元々女性の気持ちはわからないと思い距離感をもって生きてきましたが、最近急に“女性性”が世界を一変させると思えてきました。不思議なものです。
一方で、他の商店街を見ていて、何に問題があると思いますか?

佐藤芳秋さん:やはり顔の見える関係づくりでしょうね。段々エリアが広くなりお互いの関心が薄れてきて、いつしか顔の見えない関係になると難しくなると思います。顔の見える距離にいることはすごく大事ですね。
地方の商店街を見ていると、一時不動産バブルが起きた時に大手のドラッグストアやショッピングセンター等ができて、その後利益性の問題から立ち退いてしまいそのまま空き家の状態になっているところが多いですね。偶々ここは一区画が大きくないので、大手の参入を免れたと言えます。
さらにそれぞれの大家さんも以前は事業をしていた人たちなので、賃貸する際に借りる人の事業性を心配し応援しようとする大家さんが多いんです。だから結果として、街全体の事業性にもつながっているように思えます。

――ところでどんなお子さんでした?

佐藤芳秋さん:落ち着きがない、飽きっぽい、ちょろちょろしている子でしたね。中学に入る頃まで。友達ともよくケンカしていました。中学に入ってからある一人の先生に目をつけられていたというか、別に悪いことしてないのにいつも僕だけが怒られていました。それで子どもながらに「怖いな、世の中って」と思い始めました。

――結構やんちゃだったんですか?

佐藤芳秋さん:多少はそうでしたが、やんちゃ仲間とケンカとかしてもなぜか必ず僕だけ怒られる。その頃から、序列というものを意識し始めたというか、誰にどう従うとかあの人には気を遣わなければいけないとか考えるようになりました。
小学生の頃はサッカーしていてもただ楽しくやれていたのに、中学のサッカー部に入ると体育会系特有の序列的な厳しさを味わうとともに、一方で理不尽さや不合理さを感じていました。自分は従順にルールを守っているのに、何で守ってないあいつがレギュラーになるんだ。「おかしい」と。

高校に入っても同じような理不尽さを感じ、友だちとよく歴史や世の中のことを語り合っていました。何か「おかしいよね」と。
その後大学に進学しましたが、何か「おかしいな」と感じ1年で辞め、オーストラリアに1年ほど留学しました。

帰国後、就活をしましたが氷河期でしたし、そもそも大学中退し留学していた人を選ぶ会社はなかったんです。そんな中、世田谷にあるアジア・アフリカの輸入雑貨の会社の面接を受けました。面接後しばらく連絡がなかったので諦めて旅行をしていたら、突然その会社の社長から「明日から来られる?」と。急きょ旅行を中止し翌日会社に行ったところ、社長が「実は採用した子が辞めちゃってさ、キミ働いてよ!」(笑)。
それから3年その会社で働きました。

――辞めた理由は何ですか?

佐藤芳秋さん:生意気だったんでしょうね。よく社長に噛みついていました(笑)。小さい頃からの性分なのか、“しくみ”が気になるんですね。だからこの会社“しくみ”が整っていないからダメだなと。その後、うちの会社に入ってからも同じように父(現社長)に噛みついていました。

――中学時代から感じていた理不尽さを、心のどこかに引きずっていたんですか?

佐藤芳秋さん:そうかも知れませんね。結構フラストレーションが溜まっていました。

――転機はありました?

佐藤芳秋さん:ある日父から、「そんなに言うなら代案を持ってこい!」と言われ、初めて自分の問題として考えをまとめ示せたことが大きかったように思います。
父は代案を認めてくれて、やらせてくれました。

――さすがですね!お父さま。

佐藤芳秋さん:その時やっと原因は自分にある。全て自分の問題ですべて自分に還ってくるんだと気づかされました。すると周りの見え方が変わってきて、とても穏やかになりました。

三代目

――それが5年程前ですね。結婚してお子さんができたのはいつですか?

佐藤芳秋さん:結婚が2008年で、子どもが産まれたのが2010年です。

――ははあ、ご自分に変化が起きてきたのもその頃ですね。子どもができて、だいぶ柔らかくなってきたようですね。

佐藤芳秋さん: 自分以外のことを考えるようになりました。そしてまずは『半径5メートルの幸せ』から始めようと思い立ちました。ヨッシー達と地域のことを考え始めたのも、リノベーションスクールに参加し「地域社会のことを考えないと、お宅の価値なんて上がらないよ」と学んだのもその頃でした。

――今33歳で、例えば20代前半の人たちを見ていてどう感じますか?

佐藤芳秋さん:その世代の社員もいますが、僕らの世代とは感覚が圧倒的に違うなあと感じます。感覚の境目があると感じますね。僕は僕らの世代を “世紀の犯罪者世代”と言っています(笑)。
同じ歳にはサカキバラやバスジャック、秋葉原無差別殺傷事件を起こした人間がいます。何か社会的な歪があった時代でしたね。ゆとり世代という満たされた世代とはかなり違います。彼らを見ていると仕事を突詰めてやることには物足りなさを感じますが、社会や周りの人たちとつながる能力は目を見張るものがあると感じます。両極端ですね。

――なるほど、いいところを伸ばしてもらいたいですね。これからこの街やビジネスをどうしたいと思っていますか?

佐藤芳秋さん:街とビジネスは切っても切れないものだと思っているので、これからも街の人たちのニーズに寄り添って行きたいと思っています。ただ何でもできると思ってはダメで、55年間この地域で培ってきた“住”に関して皆さんと一緒にできることを考え積極的に取り組んでいきたいと思います。リノベーションもその一環です。

僕らは、『世田谷を耕す』という言い方をしています。cultivate(耕す)を続けることでculture(文化)になる。
耕すことで文化をつくっていきたいと思っています。

――“文化”いいですね!最後に素晴らしいキーワードが出てきました。
貴重なお話しありがとうございました。

今日は冒頭から、私が何者なのかについて話していました。
三代目はじっくりと私の話を聞き、丁寧に質問に答えながら最後の最後に「世田谷を耕すことで文化をつくっていきたい」と語ってくださいました。私は三代目の奥行きの深さを感じるとともに、いつも自分のカードを切れる状態で仕事をされている方だなという印象を受けました。サラリーマンとは背負っているものが違う、と言ったところでしょう。 

三代目のお話しの中心には、いつも“子供たち”がいます。
子どもたちにとってのこの街、子どもたちにとっての大人。その考えの根底には、いつも「未来を良くするために何をすべきか」という命題があると言えます。それを実感しながら、あるいは実感できるように取り組んでいるのが三代目だと感じます。

『文化とは固有のもの』。そう司馬遼太郎さんが書いていたのを思い出しました。
子どもたちが集まり、大人はちょっと襟を正す。そんな微笑ましい文化をイメージしました。

一つのエリアで暮らし営み続けることの難しさを感じる一方で、受け継いできた大切なものをまずは自分たちがしっかりと受け止め、そしてより良いものを子どもたちの世代に引き継いでいきたい。佐藤芳秋さんは、そういう夢と意思をもっている方でした。

■佐藤芳秋さんのプロフィール

佐藤芳秋さん

1982年生まれ、世田谷区出身。世田谷エリアを中心に、賃貸物件リノベーションや不動産管理、コミュニティ事業を展開する「松陰会舘」常務取締役。4年ほど前から松陰神社前を住みやすい地域に変えるべく、リノベーションや商店街イベントなどにも積極的に関わる。

株式会社 松陰会館