山田智子さんへのリレーインタビュー

筋ジストロフィーという進行性の難病と闘い歌う、シンガーの小澤綾子さんからのリレーインタビューは、2011.3.11東日本大震災で被災し、今も想いを届ける「くるみぼたんアーティスト」の*tomoComoCo*こと山田智子さんです。

山田さんは3.11で被災され、精神的に大きなダメージを受けられました。PTSD(心的外傷後ストレス障害)と診断され、家から一歩も外に出られない日々が続くほど後遺症があったといいます。

山田さんの記憶はとても鮮明で、出来事について時系列に描写的に話されます。
震度8強の地震があったこと。津波が押し寄せる直前まで一緒にいた人を助けることができなかったこと。見知らぬ街に来て偶然出会い、同じ時間を過ごした人の死。

山田さんは、想いも、地震も、忘れずに生きていく、伝えていく役割がある。そう考え、自分のできることにいのちがけで取り組んでおられます。
(聞き手:昆野)

――3.11にどこで被災されたんですか?

山田智子さん:宮城県東松山市の野蒜(のびる)海岸にあった奥松島ユースホステルです。2011年3月1日からそこで働き始めて11日目に被災しました。

――なぜ、そこで働いていたんですか?

山田智子さん:当時、私は2年半程住んでいたカナダから帰国したばかりで、海外からのお客さんと接するゲストハウスのようなところで働きたいと思っていて、偶々求人を見ていたら奥松島ユースホステルの求人が目に止まったんです。
その時は埼玉の実家にいましたが、すぐに連絡してアルバイトすることになりました。そのユースホステルはご夫婦でやっていて、私は住み込みで働き始めました。

――野蒜海岸はリアス式海岸の中では珍しく、砂浜のとてもきれいな海岸でしたね。30年以上前に、私もそのユースホステルに泊まったことがあります。

山田智子さん:海岸に沿ってきれいな松の木の並木道があり、自然がとてもきれいなところでした。

2011年3月の野蒜海岸

松の木の並木道

(二人で写真を見ながら)

――雪ですか?

山田智子さん:そうです。3.11当日も雪が降っていて、とても寒かったのを覚えています。
結構、地震には慣れていましたが、3.11の地震はすご過ぎて…。14:46の地震の前に一度大きな揺れがありましたが、2回目の揺れはすごく長くて外に出て裸足で蹲っていましたが、立っていることも座ることもできませんでした。

当日、ご主人は仙台に出掛けていて奥さんと私の二人でしたが、その日は運よく宿泊客がいませんでした。
揺れがおさまってから、私は奥さんの部屋に行き二度三度声を掛けたんですが声がしないので、自分でドアを開けて部屋に入ったら奥さんは怯えて動けなくなっていました。私は奥さんに「すぐ避難しましょう」と言って、一度部屋に戻り荷物を持って行こうとしましたが何を持って行けばいいのかわからず、とにかく着れるものを着るだけ着て、パソコン、カメラ、財布だけリュックに入れ、奥さんと一緒に隣にある避難所のかんぽの宿に手をつなぎ歩いて向かいました。途中、コンクリートの地面が液状化で水浸しになっていました。

避難所には、すでに周辺の住民や鳴瀬中学校の生徒が避難していました。私は母に避難したことを携帯メールで知らせると、「わかりました」と返信がありました。

その後奥さんが、「主人に置手紙を書いておきたい」と言いました。
私は危ないからここに留まった方がいいと三度説得しましたが、中々聞き入れてもらえませんでした。仕方なく私は奥さんに「最後は自分で決めてください」と言い、奥さんは「やっぱり置いてくる」と言ってユースホステルに戻って行きました。

そして、5分後に18メートルの津波が襲ってきました。
私は、どうすることもできませんでした。

避難所には300人程の人がいて、津波がどこまで来るのかわからないまま2~3階から屋上に上がり始めました。子どもや中学生、車いすの方…、屋上への階段はとても狭くて車いすが通れる幅もありませんでした。私も屋上に上がり、津波が押し寄せて来る様子をじっと見ていると、バスや車が渦を巻き音を立てながら流されて行くのを目の当たりにしました。その時、津波は3階まできていました。
私はどうしたらいいのかわからなくて、泣きたいけど泣いている場合じゃないと自分に言い聞かせ歯を食いしばって我慢していました。ずっと泣きたくても泣ける場所もなく、自分の感情を出せる場がなくて恐怖だけが募りました。そして日が沈み始めました。

少しして三重県の津市から来られていたご夫婦が、私が一人で心細くしていることに気づき、ご夫婦が宿泊されている3階の部屋で一緒に身体を休めた方がいいと声を掛けてくださいました。
とても有難いという気持ちでいっぱいで、部屋の中に入った瞬間に緊張の糸が切れ、私は発狂するように泣きました。
その時やっと感情が涙となりました。

その晩ずっと余震が引っ切り無しに続き、朝方まで眠ることができませんでした。夜明け前に少しだけ眠っていたら、上空のヘリコプターの音で目が覚めました。空にはたくさんのヘリコプターが飛んでいました。報道か救助のためのヘリなのか、何があったのか何もわからなかったですが、きっとすごいことが起きたんだろうなと思いながら眺めていました。
並木道の松の木はすべてなくなり、消防隊の方々が棒を持って人を探していたり…、私はその様子を呆然と見ていました。

数時間後に、遠い場所に避難されていたユースホステルのご主人が何十kmも歩いて戻ってきました。
「ちあき(奥さん)はどこにいるかわかる?」と聞かれ、私は何て答えていいのかわからなくなり、「はぐれてしまったので、どこかにいると思います」と返答してしまいました。その時は、そう答えることしかできませんでした。
ご主人は奥さんを探しに出て行きましたが、戻ってくると「見つからないんだけど、どこにいるのかな?」と。その時も、まだ私は事実を伝えることができませんでした。

翌12日の昼過ぎ屋上に救助ヘリが到着し、子どもやお年寄りや体調の優れない人から乗り込みました。1席だけ空いていたので、ご主人や他の人たちが「早く埼玉の実家に戻った方がいいよ」と、私をヘリに乗せてくださいました。
その時、その場に残った多くの人たちから電話番号を渡され、「ここに電話して生きていることを伝えてほしい」、たくさんの番号を託されました。

ヘリから見える光景はすさまじいものでした。塩釜の方向を見ると真っ黒な黒煙が上がって、街は真っ黒な平地になっていました。その後、ヘリは仙台の霞目駐屯地に着きましたが、そこには津波の被害を受けていない人たちも避難してきていて、コンビニで買ったものを食べている人もいれば、ちゃんと荷物を持ちマスクをしている人もいて、着の身着のままヘリで搬送されて来た私たちとは見るからに違っていて格差を感じていました。

――託された電話番号はどうされました?

山田智子さん:駐屯地内の公衆電話が使えなかったので、ネットで「託された電話番号です。ぜひ電話をしてこの人たちが生きていることを伝えてください!」とSNSで拡散し、それを見た友だちが電話を掛けてくれました。

――そりゃよかったですね!とても重たいミッションでしたね。

山田智子さん:はい。ほっとしました。
早く家に帰りたいなと思っていると、今度は千葉県の浦安市から来られたご夫婦が私に声を掛けてくださり、「一緒に東京に帰りましょう」と言ってくださいました。その時はとても心強かったです!

――東京までどういう経路で帰って来たんですか?

山田智子さん:仙台まで1時間程歩き、仙台からバスで山形に行き乗り換えて新潟まで行き、新潟から最終の新幹線で東京まで戻りました。3月14日の夜中でした。

――やはり時系列に、鮮明に記憶が甦るんですね。3.11以降、ご自身はどのような状態でしたか?

山田智子さん:3月14日に運良く埼玉の自宅に戻ることができたんですが、その後しばらく自宅から一歩も出れない状態が続きました。
自宅から一歩足を踏み出そうとすると、すぐに過呼吸になってしまいました。
その後、精神病と診断されてからは、両親から外出を控えるよう言われました。

ただ自分では、このままではダメだなと思い両親が不在の時に最寄りの駅まで歩いて切符を買い、一駅ずつ電車に乗る練習をしていました(笑)。そして段々、実家にいること自体がストレスになってくるのを自覚し始めました。

――そうですか…。今はお元気そうですが、どうですか?

山田智子さん:実家に戻ってすぐはPTSD(心的外傷後ストレス障害)が一番強く出ましたね。さらにパニック障害、閉所恐怖症があり過呼吸になりました。でも最近は、PTSDもだいぶ良くなってきました。
3.11直後は水の夢しか見なくて、海だけじゃなくて川が決壊したりプールの水嵩が増えたり、溺れている人がいて助けたいのに助けられない…。今でも体調を崩すと夢を見ます。

PTSDの治療は気持ちが強い人でなければできないらしく、医師に「あなたは気持ちが強そうだから大丈夫だね」と言われ治療を受けました(笑)。眼球治療という治療では、幼少の頃から3.11までの嫌な記憶をすべて想い出して、嫌な記憶を失くしていかなければならないんです。だから気持ちが弱いとできないんですよね。

自分では、幼少の頃のことが原因だとわかっているんです。実は、小さい頃から母親に甘えた記憶がないんです。

――お母さんも気がついていらっしゃるんですか?

山田智子さん:先生が母とお話しされた時に、お母さんの影響もあると伝えてくださったんですが、母は「私が悪いんですか?」と激怒しケンカになってしまいました。大変でした(笑)。
今は母もやっと、本当にやっとわかってくれるようになりました。

――結局、幼少の頃から潜在的にあったものが、3.11によって顕在化したということですね。

山田智子さん:そうなんです。だから逆に良かったんじゃないかと思っています。

――自覚したのは3.11が初めてですか?

山田智子さん:そうです。ただ以前から自分の意見を理解してくれる人はいないと思っていて、家庭も言える場ではありませんでした。何を言っても叶うことがないと思っていて、制御してしまう環境で育った感じです。

――姉弟とはそんな話をすることはないのですか?山田さんだけがそう思っているかも知れません。

山田智子さん:そこまで深く考えているのは私だけでしたね。

――やはり同じ兄弟姉妹でも、それぞれなんですよね。私も親になってみてわかりました。

山田智子さん:弟はだいぶ甘やかされて育ちました。偶にお嫁さんが呆れるくらいに(笑)。姉は「お姉ちゃんなんだから」と言われ妥協を許されずに育ちました。
私は観察しながら生きてきた感じですね。今もそうです。

――3.11の時、最もショックを受けたことは何でしたか?

山田智子さん:今も残っているのが、やはり奥さんを助けられなかったことです。あと少しだったのに、という想いが強く残っています。
周囲の人は「あなたのせいじゃないよ」と言ってくれますが、結局、私がどう消化するかということなんですよね。忘れたいと思っている訳ではないし、忘れちゃいけないという想いの方が強いんです。

手をつないでいた時のこと、最後の顔、最後の声…、私しか知らないことがあります。
ちあき(奥さん)さんがこういう人だったということを、私は憶えていなければならない人間なんじゃないか。この人が生きていたことを私は忘れない。辛いことではあるけれど…。

――ちあきさんのご主人には、3.11当日のことをお話しすることはできましたか?

山田智子さん:はい。2011年5月にご遺体が見つかったと連絡をいただき、その時に初めてちあきさんが置手紙を置きに戻ったことを話すことができました。今でも交流がありますし、今ご主人が働いている飯田橋のユースホステルにも「くるみぼたん」を置いてもらっています。

――それは良かったですね。先ほどの「ちあきさんへの想い」を伝えることはできましたか?

山田智子さん:実は、まだできないです。

――想いを伝えられれば、ちあきさんのご主人も喜んでくれるんじゃないでしょうか。

山田智子さん:いつかは、そういう話をしたいと思っているんですが、これだけの年月が経っていても未だに話せない自分がいるんですよね。やはり3.11は私にとって、とても大きな出来事だったんだとあらためて気づかされます。

――ご主人にだけ言えない状況ですか?

山田智子さん:いいえ、他の人にもあまりできないです。同じような境遇じゃないと質問されることも違うし、話す内容も変わるんです。

――じゃ今日は異例ですね?私も3.11の当事者だからですか?

山田智子さん:そうですね、こういう機会はなかなかないですからとても嬉しいです。綾子さんに感謝です!

――私も嬉しいです。先月も親族7名の方を亡くされた同郷の南三陸出身の女性が来られました。私が同じような境遇なので、心の内を話したいというお気持ちだったようです。その時は2時間程話してから、やっと本題に入っていった感じです。4時間半ほどお話ししました。
未だに気持ちの整理がつかない方が、たくさんおられるんですよね。表面的にはわからないけど、心の奥底にずっと留まっているようです。

山田智子さん:私の場合、マイナスだった出来事が今はすごくプラスに動いています。精神病を告げられた後、私は自分から精神病だと発するようにしています。そうすることで自分が知らなかったことや自分のできることがいっぱい見つかり始めました。

だから私は、これからも自分から発信して行こうと決めたんです!
私が発信することで、「実は私も精神病だった」と連絡をしてくれた方もおられます。その方はずっと自分が精神病であることを言えないでいたようです。

結局のところすべてのことにおいて、経験した人でなければわからないじゃないですか。
自分が精神病だと言えない人たちの代弁を私がすることで、そういう人たちの役に立てたり感謝されたりすることが私自身の励みになり支えにもなっています。

村上春樹さんのスプートニクの恋人という本の一節があって「大事なのは、他人の頭で考えられた大きなことより、自分の頭で考えた小さなことだ」。とても好きな言葉です。

――海外で生活したのもそのためですか?

山田智子さん:5年間勤めた会社を辞め、カナダのバンクーバーに行きました。さらにロッキー山脈の麓のバンフという町に行き2年半程過ごしました。自然豊かなところで人間らしい自然な暮らしをしていると、本来、人間はこうあるべきなのかなと思いました。

――山田さんには、今の社会はどのように映りますか?

山田智子さん:往々にして強い言葉等を発する人が多いような気がします。
今の私の周りにはそんな言葉を使う人はいませんが、偶に街に出た時などすごく耳に突き刺さってくる感じがします。会社や仕事に疲れているのか…、もう少し優しい言葉にならないのかなと思ってしまいます。

――我慢するのが当り前だと思っていて、周囲にそれを強要し始めます。無意識にそうなっていきますね。

山田智子さん:それを正当化し始めますよね。
以前、コンサート制作という自分の好きな仕事をしていましたが、結局、会社や職場に馴染めませんでした。緊急時以外、私は定時に仕事を終わらせていましたが、その会社では残業している人の方が評価されていて、私からすれば寧ろ仕事ができない人が残っていると、ずっと感じていました。私は定時に帰ることが悪いことだと思わなかったので続けていると、段々と周囲の人たちの言い方や態度が過激になっていきました。

――人間って怖いですよね。特に集団意識というのは熱を帯び過激さを増していきます。

山田智子さん:他人の嫌がることをして何の意味があるんだろうと思います。逆に、何気ないことに感謝された時は、いい意味で気づかされますね。言葉の力ってすごくて、「こうしてくれてすごく嬉しかった」とか言われると「あっそうなんだ」って思わぬことで喜びを感じたりします。
みんながそのように想いやっていければ、社会はいい方向に変わると思うんですよね。

――会社員はその会社の存在意義や、その仕事がこれからの社会や地球にとってどのような価値があるのか考えなくても日々の仕事をこなしていけます。その点では、自分の思考や行動が社会と乖離しているといえるでしょう。
でも企業にいながら社会的意義のある仕事をしようとすると、結果的にその会社にはいられなくなります。自己矛盾に陥りますからね、そこがミソなんです(笑)。

山田智子さん:そうですね、そんな気がします。私の周りではたとえ収入が少なくても自分が生きていると実感できる生活を選択したいという人が増えています。
3.11以降、生きている人の方が不幸なのか、死んだ人が不幸なのかよくわからなくなりました。究極的には、いのちがあるかないかの違いだけ。正直言って、いのちがあっても最低限のおカネがなければ生きられないということも実際問題としてあります。

もしあの時私が死んでいたら、家族に保険金が入って経済的には良かったはず。こんなに両親に迷惑を掛けてまで生きている意味があるんだろうか?いなくなった方がいいのでは、死んでいるのと同じではないか、そう思っていた時期がありました。

生きていることがすごく辛い。それをわかってもらえない。埼玉に戻って、私が津波に遭ったことを話しても「ああ、そうなんだ」と、話はそれでおしまい。現実のギャップをすごく感じました。同じような経験をした人が誰もいなくて、わかってもらえずとても辛かった。何を話しても「ああ、そうなんだ」と言われ。

――確かに現実的には最低限のおカネが必要だとは思いますが、おカネありきの生き方を大前提として考える前に、おカネがないと生きづらい経済最優先の社会に問題があると理解しておかなければなりません。そうしなければ社会がいい方向に向きませんし、自分がその一員になってしまうだけなので。
「奪い合えば足りず、分かち合えば余りある」。私たちが忘れてしまいがちな大切なことだと思います。

ところで体調が回復するのに、何かきっかけがあったんですか?

山田智子さん:2011年9月に、父に誘われて南相馬にボランティアに行きました。すでに私は「くるみぼたん」の活動を始めていたので、その時も「くるみぼたん」を販売して活動の資金にしたいと思いました。
現地に着いてから、私がボランティアの仕事をして戻って来る間「くるみぼたん」の販売を父に任せていましたが、戻ってみると千円札が1枚入っていたので「あれ、売れたんだ?」と聞くと、どうやら父が入れてくれたらしいのです。私はとっても嬉しくてたまりませんでした。
「父は私のことを理解しくれている」、そう思えたことは私にとってとても大きな一歩でした。

くるみぼたん

――言葉ではなく、行動で示してくれたんですね。
私自身、親が子を想う気持ちというのは、親になって初めてわかることが多いなと実感しています。ほとんどの親は、「子どものためなら自分のいのちは惜しくない」と思っているのではないでしょうか。だから私は、早い時期に親の想いを伝えた方がいいと考え、子どもにそう伝えました。
最近、近所の人に「お宅のお子さんはみんないい子に育ちましたね」と言われ、「へーそうなんだ」と思うことがあります。ただ後から考えてみると、この親にしてはいい子どもと言われているのかと苦笑したりと色々です(大笑)。

今どのような活動をされていますか?

山田智子さん:3.11で被災した東北や熊本の被災地に「くるみぼたん」や「冷えピタ」「カイロ」を届け続けています。いつも送る時はモノだけではなく、支援して下さった方々のメッセージを添えています。

プレゼントをもらった時も、メッセージがあるととても嬉しいですよね。メッセージは紙とペンがあればできますし。
また被災地に対してどんな支援をすればいいのかわからないという人たちも、ご自分のメッセージが被災地の方々に届き喜ばれている様子を確認することで、私を通じてすでに知らなかった人同士がつながっていますよと言える状況が生まれるんです。

いただいた一つひとつのメッセージの写真を撮って送り、届けてくれた人も写真を載せてくれるので、メッセージを送った人は次回友だちを誘って参加してくれます。私はそういう窓口になりたいと思っています。橋渡しになれればいいですね!

最初は自分の想いだけでやっていたことがいろいろな人が共感してくれることによって、自分がやりたいことを実現できるようになってきました。「くるみぼたん」を置いて販売してくださるところも増えています。

――旅人としてはどうですか(笑)?

山田智子さん:現在16か国を旅しました!そしてネパールやカンボジアの子どもたちに文房具を届けたりしました。
以前からやりたかったことなんですが、とても強く想うようになり「よし、ネパールに行こう!」と想い立ち、文房具を集めて行きました。向こうに着いてからどこに行こうかとボーとしていたら、バイクに乗ったおじさんに声を掛けられ事情を話すと「じゃ私の学校に来てよ」と言われてついて行きました。
偶然にも、そのおじさんは校長先生だったんです(笑)!子どもたちがいっぱいいて鉛筆を1本1本渡してきました。

子どもの笑顔には救われますね!
落ち込んだりイライラしている時でも、子どもの笑顔を見ると救われます。
子どもってすごいな!

「冷えピタ」にみなさんのメッセージ

――今一番やりたいことは何ですか?

山田智子さん:3.11の現状を伝えることも大切ですが、今回の熊本で感じたことは3.11の教訓から学んでいないことが多すぎるということでした。自分は大丈夫だと過信している人が多いんです。ですから教訓を伝え、災害への備えを十分にしてもらい、一人でも多くのいのちが守られるようにしていきたいと思っています。
震災の時の状況を伝えつつ、とっさの時に何が必要なのか、どういうものを用意しておくべきか。震災後の支援物資も交通網が回復しないうちは送ることができないので待機しなければなりません。時間とともに、被災地から要求があってから物資を集め送っても十分間に合う場合もあり、日々変化していく状況に応じて対応する必要があります。
熊本でも、ボランティアに行ったらやることないと言われたとか色々ありますね。

――子どもたちに何を伝えたいですか?

山田智子さん:いろんな振り幅を持たせてあげたいですね。いろんな目線いろんな考えができるような環境をつくってあげられたらいいなと思います。例えば「子ども食堂」。すごくいいですよね!
誰かと一緒に食べた方が絶対美味しいし、一人ではできないことでも友だちとならできることもあるし。
親が子どもの選択肢を狭めちゃいけない。できるだけいろんなことを見てほしい。

子どもたちに喜んでもらえるのが一番しあわせ

2016.3.5
東京での復興支援イベント、約100人の方にきていただきました。

――どんなお子さんでしたか?

山田智子さん:人と接するのが苦手で、あまり女の子らしくなくて男っぽい感じでした。女の子の輪に入るのが苦手でした。団体行動が苦手で、遠足とか行きたくないので行きませんでした。
母はおカネが掛らなくていいねと言って、学校に電話していました(二人大笑)。

私がどんな子どもだったか、母にメールして聞いてみたらこんな返事がきました。

  三人の真ん中で、いつも元気で大病せず大きくなりました。

  夏休みの宿題に、小玉スイカの種をまいたり、ピスタチオのネックレスをつくったり、春にはヨモギを摘んでいました。

  おばあちゃんのお使いはいつも智子でした。

  プールもすぐに立ち泳ぎまでできるようになり、がんばりました。整理整頓が苦手でしたが、機転が利きました。

  お料理は姉より上手でした。

――面白い方ですね、お母さん。一人でいることは多かったけど自由に育ててくれたようですね。

山田智子さん:確かにそうなんですが、すべて自己責任って感じです。高校の時には、学校で怒られるのはいいけど、家にまで学校から電話がくるような面倒なことにはしないでと言われていました(笑)。

姉や弟とは随分違った育てられ方でした。姉は20歳になるまでピアスや外泊は禁止でしたし、弟は待望の男子だったのですごく甘やかされていました。
なぜそこまで違うのか未だにわかりません。でも私はそれでよかったです。

カナダに住んでいる時に、母から手紙が届き読んでみると「雑に育ててごめんね」だって(笑)。自分でもわかってるんだ!(大笑)

――もし長女に生まれていたら、たいへんでしたね!(笑)。

今日はこころを開いてお話しいただき、本当にありがとうございました。私が3.11の当事者として、山田さんのお話しをお聞きすることができたことを光栄に思います。

「子どもの笑顔には救われますね、子どもってすごいな!」と山田さん。
私は山田さんとお話ししながら、そう思えることが人間にとって最も大切なことなんじゃないかなと考えていました。
そもそも大人というのは、理屈抜きにそう思える人のことなのでしょう。
子どもから学び、子どもに救われるのが大人。
大人が子どもにできることは、「自分の体験について伝えること」。
それだけなのかも知れません。

山田さんは、敢えて「精神病」という言葉を使いながらご自身の体験を語ってくださいました。
とても勇気が必要なことだと思います。
いのちがけで伝えなければならないことがあるのだと思います。
これからもずっと、ご自身の想いを伝えてください。

いつも真剣に生きている山田智子さんは、“こころの旅人”でした。

■山田智子さんのプロフィール

山田智子 1982年9月22日埼玉県出身
くるみぼたんアーティスト*tomoComoCo*として、東北の方々の笑顔を増やしたい!という思いで活動中。自身が、東日本大地震を宮城県東松島市野蒜にありました、奥松島ユースホステルで仕事中に被災し、避難所生活の中で、髪の毛を輪ゴムで縛っていたことがきっかけとなり、くるみぼたんのヘアゴムを震災半年後から作り続け、5年目の活動となります。被災と同時にPTSDなどの精神病とも向き合いながら、生かされている命を生き抜いていきたいと思っています。売上全てが東北活動資金となる、くるみぼたんのヘアゴムを置いてくださる場所、ご購入して頂ける方がおりましたら、ご連絡を心よりお待ちしております。

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