佐野 碧さんへのリレーインタビュー

くるみぼたんアーティストの山田智子さんからのリレーインタビューは、シンガーソングライターの佐野 碧さんです。

2015.4.25に起きたネパール大地震の直後から、仙台出身の佐野さんはライブツアーによる募金活動を始め、2か月後にネパールに入り支援活動を行いました。
帰国後、継続的に効果的な支援活動を行っていくためにはどうしたいいいのか、知恵を絞り合って生まれたカタチが「HIKARI SONG GIFTプロジェクト」でした。 

そしてネパール大地震から1年後の今年4月、佐野さんは日本の方々から託された贈り物を届けるため再度ネパールを訪れました。
半信半疑で歌い出したストリートライブから1年が経ち、今回は世界遺産バクタプールでチャリティーランタン音楽フェスティバルを主催し、5000人が集まった感動ライブになったといいます。

さあ、パワフルな佐野さんのお話しをお聞きしましょう。(聞き手:昆野)

 

――仙台のご出身ですが、3.11はどこにおられたんですか? 

佐野 碧さん:東京にいました。 

――仙台にはご家族がおられたんですか?

 佐野 碧さん:そうです、両親がいました。市内のマンションに住んでいましたが、エレベーターが止まり水道、下水道も使えなかったので、上層階に住む高齢者の方々が大変だったようです。みんなで給水車から汲んだ水を、階段で上層階に運んだりして協力し合って凌いだようです。

――3.11以降、初めて仙台に入られたのはいつ頃でしたか?

佐野 碧さん:5月になってからでした。震災後にやっと両親と電話がつながった時に、両親から今帰って来られても困ると言われ、帰るタイミングを見計らっていました。
5月に帰った時にはすでに電気・水道・ガスなどのインフラは復旧していましたが、仙台市内でも津波の被害を受けた地域とそうでない地域の復旧の差が大きくて、同じ仙台に住んでいても時間とともに意識格差を感じました。

――3.11の傷跡は、目に見えないところにも大きく残っています。2015425日のネパール大地震も被害が甚大だったようですね。 

佐野 碧さん:3万人以上の死傷者が出て、そのうち9千人弱の方が亡くなられました。
私たちが初めてネパールに入ったのは震災から2か月後の昨年6月でしたが、首都カトマンズ市内でも広場や路上にまでテント生活者が溢れている状態でした。

仮設テント

 ――何がきっかけでネパールに行くことになったんですか? 

佐野 碧さん:母が住んでいるんです。元々、30年以上学資支援を行っていて、学校にいけない子どもたちが高校や大学へ進学できるよう支援をしています。またブルーポピーというNGOの代表もしています。
私自身、ネパールにはインド声楽を学びに来ていて、神秘的なネパールの文化にどんどん惹かれていました。 

ネパール大地震の直後から、母に被災した状況などを聞いていたので、混乱が続くネパールの被災者に対し私たちにできることはないかと考え、日本でライブツアーをして募金を集めました。そして2か月後に、集まった募金とみなさんの想いを胸にネパールに入りました。

 ネパールと東北の震災復興支援募金。テーブル上と右後ろには“くるみぼたん” 

母はブルーポピーの代表として、またサイノネパールの一員として支援活動をしていて現地の状況に詳しかったので、私たちはネパール入りした翌日に、母と現地の方々とともに被害の大きかったブンガマティという村を訪れました。
そこで壊れた家、匂い、人の表情悲惨な現実を目の当たりにしました。この村は神物の彫金や木彫りがとても有名なところですが、古い建物が多かったため建物の95%750世帯が家を失っていました。レンガづくりの家が最も被害が大きかったようです。
倒壊していない家でもいつ崩れるかわからないため、テント生活を余儀なくされていました。さらに6月は雨季のため降雨量も多く、浸水や感染症などの衛生面についても心配でした。

現地に入り想像を超える状況を目の当たりにして、私はあらためて「継続的にできる支援のカタチ」を考えさせられました。

 倒壊した建物 

――まず何から始めたんですか? 

佐野 碧さん:翌日再度ブンガマティ村を訪れ、村人に相談して750世帯の中でも特に状況が厳しい世帯を抽出してもらうことから始めました。すると身寄りのないお年よりなど緊急援助が必要な51世帯が抽出され、必要なものもリストアップされていました。
その時必要だった緊急物資はポンチョ、傘、懐中電灯、電池でした。 

――やることが素早いですね! 

佐野 碧さん:性分だと思います(笑)。
翌日には
51世帯に届ける“ニコニコ傘”の準備を現地の方々のご協力のもと始めました。 

――“ニコニコ傘”? 

佐野 碧さん:私が勝手に名付けたんですが、一つひとつの傘に心を込めてニコニコマークを描いたんです(笑)。 

ニコニコ傘と佐野さん

そして翌日51世帯に緊急物資を届けました。届けた“ニコニコ傘”には、村の方々にもニコニコマークを描いてもらいました。すると不思議なことにその場の雰囲気が変わり、和やかな空気が流れるのを感じてきました。村の人たちも、自然と笑顔になっていくのがわかりました。
その時は嬉しかったですねー、とても!

ニコニコ傘に絵を描くネパールの女性

――よかったですね!お話しをお聞きしいている私もほっとした気分になります。ネパールにはどれくらい滞在されたんですか? 

佐野 碧さん:2週間ほど滞在していました。その間私たちは“ニコニコグループ”と称して、日本式循環型トイレ“NIKO NIKO Toilet”をつくり、そのトイレのドアにニコニコペインティングをしたりしました。
実は、ネパール語でNIKOは「良くなる」という意味なので、村の人たちにとってこのトイレができて生活が「良くなる」し、“ニコニコ傘”を差している人を見かけるたびに色々なことが「良くなる」と確信をもち始めました。とても感動的でした!

 

トイレの設営開始

NIKO NIKO Toiletのドア

――音楽を通して感じたことはありますか? 

佐野 碧さん:やはり音楽は、見知らぬ人たちを笑顔にしてくれる力があると痛感しました。
ネパールに着いて7日目に、カトマンズ旧王宮広場でストリートライブをやろうということになったんですが、最初私は躊躇していたんですよね。被災した人たちの生活がままならない状況で、歌なんて歌っていいんだろうか不謹慎じゃないかという想いがあったので。
でも緊張しながら歌いはじめると、テントの中から1人、2人、3人と集まってきてくれました。徐々に子どもからお年寄りまで多くの人が集まり、みんなで踊り歌いました。アンコールまでいただき、ストリートライブは1時間程続きました。

すると募金ギターケースの中に4000ルピーが集まっていたんです!
その時初めて、私は現地の人たちとともに未来に向かうことができたと感じました。あらためて音楽のすごさ素晴らしさを実感し、私自身ますます音楽が好きになりました!

ストリートライブの様子

 ――その後、どのような支援を続けているんですか? 

佐野 碧さん:昨年帰国してから「HIKARI SONG GIFTプロジェクト」をスタートさせ、停電の絶えないネパールにヒカリを届けるためのチャリティ音楽フェスティバルを行っています。
ヒカリというのはソーラー式のLEDランタンで、1000個のランタンを送り届けることを目標に活動しています。 

――ソーラー式ランタン、いいですね!それを思いつくヒントがあったんですか? 

佐野 碧さん:ネパールは震災前から18時間~12時間停電が起きていました。慢性的に電気が足りないんですね。
震災後はさらに悪化しましたし、テント生活では電気も使えません。実際私も行ってみて、夜トイレに行くにも真っ暗ですしお年寄りが転んでケガをしたりしていました。またテントや仮設住宅に住む人たちは土地の所有権をもっていないので、いつ退去させられるかわからない状況で、持ち運べるランタンがあればどこにいても電気を確保することができると考えました。
それでソーラーで発電して繰り返し使え、軽くて持ち運びも簡単なランタンをネットで探したんです。
色々なタイプのランタンをたくさん購入して商品検査をして厳選したのが、このランタンです。代表の小野渚自らが率先して商品検査を行いました(笑。隣に座っている小野さんも笑)。
 

――すでにランタンは届けられたんですか? 

佐野 碧さん:はい。震災から1年経った今年4月、おかげさまで295個のランタンを現地のみなさんに、一世帯ごとに一つひとつ直接手渡しで届けることができました。これからもランタン1000個を目標に活動を続けて行きます!

 一軒一軒、手渡しで送り届けられたランタン

――まずは295個、よかったですね。これからも楽しみです。1年経って復興は進んでいましたか? 

佐野 碧さん:仮設住宅に住んでいる人たちの状況はあまり変わらないですね。日本の復興も遅いと言われていますが、比べものにならないほどネパールの復興は遅く今後何十年掛かるかわからない感じですね。 

――今年もライブをされたんですか? 

佐野 碧さん:今年はネパール世界遺産のバクタプールでチャリティーランタン音楽フェスティバルを開催し、5000人ほど集まってくれました!これからも続けていって、いずれは『タイのコムローイのランタン祭り』のような、観光産業のひとつになることを目標としていきたいと思っています。


チャリティーランタン音楽フェスティバル


会場はランタンの光の海

――佐野さんのブログで“ダンニャバード”という言葉を見かけますが、どういう意味ですか? 

佐野 碧さん:ネパール語でありがとうということです。
ただネパールの人たちは普段あまり使わなんです。なぜ使わないのかなと思っていたんですが、リスペクトに近い意味合いで神様には言うけど人に対してはあまり使わない言葉のようです。
寧ろ人に対しダンニャバードと言うと、少し寂しく感じたり、「〇〇してあげた」という恩着せがましい感覚になるようですね。
色々な世界の人たちと関わると、自分の感覚も外から見られるのですごく勉強になります。 

――いつも「お互いさま」という気持ちで生活しているんでしょうね。敢えて言葉にする必要はなく、口先だけのことに流されずに生きている感じがします。温かみがある人たちなのでしょう。 

佐野 碧さん:とってもあったかいです、日本人に似ていますね。日本人のように繊細です。他人のことを放っておけない、あまりガツガツしたところがなく、すごく人がいいって感じます。 

――そうですか、元々日本人もそうだったんでしょう。ビジネスや経済優先の社会になればなるほど、「人は人」という個人主義的な面が強くなっていきます。競争に勝つか負けるかが重大な関心事になるので、こころの余裕が薄れていくのでしょう。見失っている日本の良さを、取り戻さなきゃいけませんよね! 

佐野 碧さん:確かに!ネパールではあちこちで瞑想している人もいて、とてもゆっくりとした時間の流れを感じます。いつまでもそうあってほしいですね。 

――日本人の場合は“迷走”ですかね(笑)。豊かさというものを勘違いしているんでしょう。本来“こころの豊かさ”が養われ広がっていくことで、世の中に幸福感が生まれてくるのだと思います。
ネパールの人たちはどうやって生活しているんですか?自給自足が多いんですか? 

佐野 碧さん:水も米も豊富にあるので自給自足で生活できる国なんですが、ほとんどインドに流通してしまっているようです。経済的にインドの影響力がとても強いんです。
ヒンズー教徒が約70%なので、カーストによって仕事や職業が決められているようです。キリスト教、仏教、イスラム教徒もいますが、特に子どもたちはみんな仲がいいんです。本当にいい国だなって思います。

 ――佐野さんは小さい頃から海外を移住されていたようですが、どのように育ったんですか? 

佐野 碧さん:父は仕事の関係でアメリカ、母はネパールに住んでいて、私は母の友だちの家を転々としながら(笑)台湾の幼稚園に通ったり、中国、オーストラリアに行ったりとかあっちこっちでした。 

――すごいご両親ですね! 

佐野 碧さん:私自身は嫌だったんですよ。偶に親が帰ってきて親の顔を見るといった感じで、なぜかすごくインターナショナルな家でした。 

――今年6月に仙台のkoboスタ宮城『楽天VS阪神』戦の始球式で、国家斉唱をされましたがどんな感じでしたか? 

佐野 碧さん:私はやはり日本人なんだなという感じが湧き出てくるような、すごく気持ちがよかったです!一方で、ピッチャーの孤独感のようなものを感じました(二人大笑)。 

――ピッチャーの孤独感…、わかるんですか? 

佐野 碧さん:小学校は少年野球をして卒業後中学校まで男子に混じってリトルリーグをやっていたんです。今は女子野球も普通にありますが、その頃は男子しかなかったので男子チームでサードやセカンドをやっていました。東北選抜まで行ったんですよ!
未だに自慢できるのが当時の野球のことです。私のガッツはすべてそこからですね!! 

――国家斉唱は一生モノですよね。 

佐野 碧さん:メッチャ嬉しかったです!
たくさんの方の前で国歌を歌えることは光栄でしたし、あの球場の芝生に入れるのがどれだけ幸せなことかわかっているので、相当喜んでいると思いますね(笑。顔がほころんでいます)。 

――相当喜んでいるってご自分のことですよね?面白い言い方をされますね(笑)。ご自分を客観視しているんですね。
佐野さんからみて、今の日本の子どもたちをどう思われますか? 

佐野 碧さん:今と昔で違いがあるかわからないけど、自分が大人になって思うのが、子どもたちを見ていると少し不自由さを感じます。親が「これはダメ、あれはダメ」って言うことがすごく多くて、あれではせっかくの子どもの自由な発想が、ぎゅっと縮んでしまう気がします。
小さい頃から価値観を押し付けられると、大人になってから他人に押し付けちゃうじゃないですか。 

――佐野さんは自由奔放だったので、かなり気になっちゃうでしょうね。 

佐野 碧さん:そうなんですよね。おかげさまで私は、周りのことを気にせずに生きられるので、人間関係をつくる上でも自然に感覚的にわかるんです。
まだ小さな子どもでも、こんなこと言ったら嫌われるだろうなとか、自分の夢を大きい声で言えなかったり…、何かを恐れているような感じですね。
恐れがすごいなあって感じです。 

――言っていいのか悪いのかを考えてしまう? 

佐野 碧さん:そうそう、変に大人というか。 

――佐野さんのこころの自由さや発想は、音楽にも表れている感じがしますね。精神性の高い歌詞だったり、民族音楽的な曲や歌い方だったり…。 

佐野 碧さん:母の影響が大きいと思います。母はバンスというネパールの笛をやっていましたし、私は3歳からピアノを始めていました。
音楽を本格的に始めたのは大学からですが、今隣に座っている小野と高校の時にバンドを組み、ツーボーカルでやっていました。その後、現メンバーでバイオリンの鈴木が大学から加わり3人で活動していました。 

――2年前に株式会社トミーシ―エンターテイメントを設立されていますが、何かきっかけがあったんですか? 

佐野 碧さん:私が前の事務所を辞めて「どうしようかな」と思っている時に偶々小野がライブに来ていて、小野が「事務所を立ち上げたい」と言ったので、私が「じゃ一緒にやろう」ということになりました。二人とも情熱で生きています(笑)!
周囲からは、こんな音楽業界の景気が悪い時期にバカじゃないかと言われましたが。 

――周りは勝手なことを言いますから。自分は常識人だと思っているけど、非常識でリスクを取りたがらない人がすごく多いです。自分もそうならないよう気をつけなくてはなりません(笑)。
情熱は大事にしなくちゃいけませんね!以前、リレーインタビューで佐谷さんが、「日本人は肝心な時に旅することを止めてしまう。旅に限らず好きなことを止めてしまう」と言われていました。 

佐野 碧さん:確かにそうだと思います。 

――制約を感じてしまう。自分で制約をつくってしまうんですよね。でも佐野さんの場合は、ご両親が好きなことをして生きていらっしゃるから、制約感を感じることなく生きて来れたんじゃないかと思います。 

佐野 碧さん:おかげさまで自由に生きてます!きっと私も、両親と同じような人生をおくるんでしょうね(大笑)。 

――今やりたいことは何ですか? 

佐野 碧さん:目に見えることであれば、ランタン1000個集めたいです!
目に見えないことであれば、人間のもっている欲や利己を超えて、意識をもう少し違う方向に向けられるような音楽ができたらいいなと思っています。 

――ブログを拝見していると「目に見えない」という言葉が飛び込んできます。視覚以外の感性を大切にしている方なんだなと思って読んでいました。 

佐野 碧さん:ありがとうございます!そうですね、すべてそんな気がしています。 

――現代人は視覚から得る情報に依存し過ぎていて、それ以外の感性が疎かになっていると感じます。視たことだけで判断し考える。本来、直感を大切にすべきなのに、直感を信じることができないし直感が磨かれるような生き方もしていない。
視覚以外の感性を高めることで人間らしさを取り戻せると思うんですが。
特に聴覚を研ぎ澄ますことから始めるといいようです。普段の生活の中で、耳を澄まして色々な音を聴き分けることで、精神性が高まると聞いたことがあります。 

佐野 碧さん:日本人らしい感覚が失われていったり、真っ先に経済のことに目が行ってしまうことも、すべて目に見える情報に偏っているから起きることのような気がします。 

――歌はどのようにしてつくられるんですか? 

佐野 碧さん:メロディはふっと降りてきたりしますね。鼻歌で出てくるとか、感覚的に湧いてくるタイプです。どちらかというと歌詞よりメロディが先に出てきます。「ふっ」とか「あっ」という感じですか(二人大笑)。
眠りにつく寸前に「あっ」という感じとか、モードオン状態でピアノに向かっていると、どんどんメロディが湧いてきます。逆につくろうと意識を向けるとつくれなかったりします。 

――やはり、そういうものなんですね。意識しない状態の方が湧き出てくる…。普段からどういうことに気をつけていますか? 

佐野 碧さん:“周りの気を感じる”ことをこころ掛けています。自分から主張する前に、まず周りの状況を感じて受けてから話したり歌ったりしています。それから、人の“しぐさ”を良く見ています。歌詞を作るうえで人のしぐさはイメージにつながります。どうしても自然にアンテナが作動してしまうので(笑)。
また音楽関係以外の人と話す機会をつくるようにしています。意識的に音楽仲間の中にはいないようにしているんです。そうすると自分が客観的に見えてきます。もちろん健康にも気をつけていて、腹筋、背筋など当たり前にトレーニングしています。 

――普段のこころ掛けによって、ずいぶん入ってくるものや感じ方が違ってきますよね。 

佐野 碧さん:そうですね。逆らわない感じ、気に乗る感じを意識していますね。 

――いいですね!日本人は考え過ぎですからね。“直感を磨き、直感に生きる”それが間違いのない生き方、自分らしい生き方だと私は思っています。 

佐野 碧さん:そうですよね(二人大笑)! 

――突然ですが、佐野さんはどういう時にしあわせを感じますか? 

佐野 碧さん:自分の気持ちに正直にいられる時がしあわせ!
もう一つは、執着が外れて感覚もなくただそこにいる瞬間、しあわせだと感じます! 

――しあわせは、いつも自分がそう感じられた瞬間にあるということですね。素晴らしいですね!
しあわせを求めている人が多すぎですよね。求めていては、いつまで経ってもそう想えないのかも知れません。
 

佐野 碧さん:いつもそこにループしちゃいますよね! 

――子どもたちに何を伝えていきたいですか? 

佐野 碧さん:他の国の出来事は遠いところの出来事に思えて、自分の問題ではないと思ってしまうけど、言葉や文化は違っていてもわかり合えるんだということを、今の「HIKARI SONG GIFTプロジェクト」を通じて具体的に伝えていけたらいいなと思います。
ヒカリつまりランタンは目に見えるものなのでわかりやすい。「このヒカリを持って行くね」と言って、現地で渡して来た写真を子どもたちが見ることで「ああ、ボクが渡したヒカリが、こういうところにいるこういう人たちに届き喜んでもらったんだ!」って実感できると思うんです。

子どもたちにとって地球、平和、社会、政治という言い方は大き過ぎてわかりにくいことかも知れないけれど、こうやって一つひとつの行動によって何が起きているのか、どんな人たちの役に立ち喜んでくれているのか、いつも子どもたち自身が感じられるようなことを一緒に伝えていきたいですね。
私が動くことによって、子どもたちにわかりやすく伝えられることをこれからも続けていきたいと思っています。

音楽によって、私たちはすべてを超えてわかり合えると思っています。
そして、ただただ楽しくて素晴らしいです! 

――音楽のすごさをあらためて感じることができました。とても楽しいお話しをありがとうございました。

 これからも一つひとつ

 

3.11は未曽有の災害でしたが、世界中を見渡すと先が見えず希望のもてないまま日々を過ごしている人たちがたくさんいます。
日本にいて恵まれ過ぎている日常を送っていると、報道や映像を観てもやはりどこか遠くの出来事に映ってしまいます。
「関わることが大事なんだな」佐野さんとお話ししていて、そう強く感じました。 

音楽をつくり、歌い、奏で、響き合う。
佐野さんの感性は、とても研ぎ澄まされています。 

その感性をさらに磨き高めることは、“生きること”そのものだと感じます。

目に見えないもの、音にならない音、言葉にする前の感覚を大切にされている佐野 碧さんは、“感性を生きる人”でした。 

 

■佐野 碧さんプロフィール

佐野碧 SANO AOI
海外でカリスマ的人気を誇る唯一無二の女性アーティスト。
20164月日本人で初ネパール世界遺産バクタプル ダルバール広場にて主催したチャリティーフェスティバル『HIKARI SONG GIFT』は5000人以上を集客し、ヒカリと音楽を融合させた幻想的なステージは震災で疲弊した現地の人々の希望のヒカリとなった。その伝説的なステージは、海外主要メディアでも大々的に取り上げられる。 現在も自身のメインの活動は被災地の支援にあて、音楽とヒカリを各地に届けている。
 幼少の頃から世界各国を訪れ、異文化に触れる。それらの経験を通じて感じたもの、それは「全ては一つ」という意識。それが彼女の音楽活動の原点となっている。
作詞作曲・アレンジ・ミックス楽曲制作全てを自身で手掛けている。空、大地、地球と繋がりを感じさせる繊細かつ壮大なメロディーと、人々の心を魅了するソウルフルな歌声は、国内外問わす高い評価を得ている。
ネパールから帰国後、20165Jリーグ国際支援テーマ曲に採用、6月にはプロ野球楽天阪神戦にて国歌斉唱を務めた今注目のアーティスト。

 

 

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