竹田光一さんへのリレーインタビュー

精神科看護師の甲斐貴志さんからのリレーインタビューは、演出家・プロデューサーの竹田光一さんです。

長年、竹田さんは俳優の養成に深く関わり、学校教育とは異なる独自の視点で数万人の生徒を指導されてきました。
そこには子どもたちの成長を願う親心と、厳しくも愛情たっぷりの“人を育てる情熱”が息づいています。
さらにエンターテイメントによる地域おこしや国際交流に携わるとともに、日本語学校の講師として外国の子どもたちとの関わりを深めておられます。

元来、生粋のアスリート。
強面(こわもて)で体育会系の竹田さんが舞台に上がり満面の笑みで音頭を執ると、会場は一気に和やかな空気に包まれ、そして熱気を帯びてきます。(聞き手:昆野)

――エンターテイメントによる国際交流とは、主にどういうことをされているんですか?

竹田光一さん:“よさこい”や“剣舞”などの文化芸能を通じて、外国の方々との交流を深めています。主に外務省などが中心となって毎年行われるイベントに、参加を要請されています。

――日本と他国が政府間レベルで進める国際交流ということですね。どんな国が対象ですか?

竹田光一さん:中国やベトナムなど、アジアの国が多いですね。日本の政府が様々な国と親交を深める上で、政治や企業が前面にでるよりも、まずは日本の文化に触れてもらい親しみのある関係づくりを進めていこうというものです。

――中国もベトナムも社会主義国なので、政治的な背景を考慮した中で経済的な展開に繋げていこうとする狙いがあるのでしょうね。アーティストの役割は重要ですね。

竹田光一さん:私自身はあまり大きなことを考えている訳ではなくて、純粋に自分がやりたいこと自分の生き方に沿ったことを続けているだけなんです。それが日本の美であったり、日本人らしさに通じるものなので、国際交流のような場にも出させていただけるのかなと思っています。
もちろん私自身、そういう機会をいただき役割を果たせることは光栄に思っていますし、色々な国の子どもたちと出会い喜んでもらえることがすごく嬉しいですね!

――アーティスト冥利に尽きますね!

竹田光一さん:そうですね。特に近年はベトナムとの親善の場に参加することが多いですが、ベトナムは親日的なため日本の文化を好意的に受け入れてくれます。
アニメもそうですし、刀を見せると嬉しそうに「サムライ!」と声をあげてくれます(笑)。昨年11月の香港公演でも、サムライ姿の私たちのジャパンブースの前では、写真撮影に行列ができていました。

香港公演2016(写真上・下)

2006年にベトナムのハノイで『ジャパンフェスティバル』が開催され、初回はベトナムに行きました。その時のベトナムは日本の昭和の時代を彷彿させる雰囲気があり、とても懐かしい想いになりました。
日本人と性格的な面や手が器用なところも似ている感じで、食文化も違和感がなかったですね。その後、日本とベトナムで交互に文化交流が開催されるようになり、毎年代々木公園で開催されている『ベトナムフェスティバル』に出演させて頂いております。

『ジャパンフェスティバル2006・イン・ベトナム』ベトナム最後の晩餐会(左が竹田さん)

――普段はどういった仕事をされていますか?

竹田光一さん:主に①俳優・タレント育成講師。②日本語教師。③イベントプロデュースです。サンミュージックアカデミーで20年間、講師として俳優の養成・指導を務め、現在はTMS(東京スクールオブミュージック&ダンス)専門学校で、俳優・タレント科のドラマアクティングの講師。また千葉学芸高等学校芸能コースで非常勤講師、母校である練馬区立大泉西中学校の演劇部でコーチをしています。
2015年より、日本語学校で外国人に日本語教師も始めました。
ライフワークになっている毎年4月に川崎大師で開催される『かわさき楽大師まつり』では、“厄除よさこい”をプロデュースさせて頂き、お陰様で今年は13回目を迎えます。

かわさき楽大師まつり

――3.11以降、“よさこい”は全国に波及している感じがしますね。確かにパワーを感じます。

竹田光一さん:2011年3.11の時は自粛ムード真っ只中で、4月の開催は危ぶまれていました。そこで実行委員会、よさこいのチームの方々に、こんな時だからこそ“よさこい”をやったほうがいいと相談したところ、賛同して頂き、開催に漕ぎつけることができました。

元々、“よさこい”は戦後復興を目的に高知で生まれた祭りで、震災後にやめてしまったら祭りの趣旨に反します。復興に向かって団結心を高め、協力し合い応援し合って早期に復旧・復興を進めるためにも、必ず開催すべきだと確信をもって臨みました。趣旨を変更し、例年開催していた“よさこいコンテスト”を“応援よさこい”とし、メッセージ性の高い祭りとして開催させてもらいました。

――賛否両論あったでしょうね。3.11当事者である私の立場では、被災していない人たちが今まで以上に活力を取り戻して生きていくことが、被災地にとっても励みとなり力となると思っていました。開催して正解でしたね!

竹田光一さん:そう言って頂くと、とてもうれしいです。確かに不安な気持ちがなかったというと噓になります。私たちのエゴではないかと何度も自問したことを鮮明に覚えています。しかし、最終的に開催を決定づけたのが、被災した東北のチームからの一言です。「今回、自分たちはやむを得ず参加できないが、是非、開催してほしい」と声があがったことでした。日本中が何かにつけ遠慮がちで過敏になっていて、過度な自粛ムードに陥ってしまうことが逆効果だということを気づかせてくれたと思います。

――チームの参加状況はいかがでしたか?

竹田光一さん:9割程が参加しましたね。予め各チームに対して、“応援よさこい”の趣旨を伝え、地域や個人によってそれぞれ個別の事情もあると思うので、色々なことを考慮して参加の可否を判断してもらうようにしました。

――反響はどうでしたか?

竹田光一さん:「よく決断してくれた!」、「“よさこい”はやらなきゃダメなんだよね」とか、「こういう時こそ“よさこい”パワーでエールを送りたい」とか、「そういう趣旨なら喜んで」という声が多かったです。多くの方から応援、励まし、喜びの声をいただきました。想いは通じますね!!
他のよさこいイベントの代表者からも問い合わせが多々ありました。
やらずに後悔するよりは、その時色々言われてもやっぱり良かったと思えるようにしたいですね。

その時々、人は“事なかれ”的な考えに立ったり、摩擦が起きることを回避したいが故に、目先のことに捉われ本質から外れた考え行動に陥りやすいですが、もっと大きなビジョンをもって判断していくことが大切だと思います。

――重要な判断や意思決定を要する時ほど、“そもそも何のために”とか“本来どうすべきか”という原点に立ち帰ることがとても大切ですね。人間迷っている時は、雑念で一杯一杯になっていますから(笑)。
みなさん都合よく考えたり、自己正当化したり、損をしないように誤魔化そうとしたりで忙しくなっちゃいます(笑)。そうやって原点に帰れなくしていますね。

竹田光一さん:本来もっている“よさこい”パワーを信じることが大切だと思いました。
以前、金八先生のドラマの中でも、クラスの結束力を高めるために“よさこい”を踊っていましたが、すごいですね。また高齢者施設によさこいワークショップで伺った時に、子どもたちがおじいちゃん、おばあちゃんたちによさこいを教えていました。ある車椅子のおばあちゃんが、最初は座ってやっていたんですけれども、そのうちこう、何かだんだんとこうやって、そのまま立ち上がったんです、こうやって。それを見て、「あれ、おばあちゃん、どれぐらいぶりに立った?」と介護スタッフが声をかけ、立ったことに驚いてしまって、やっぱりこれもよさこいパワーなのかなと、すごいびっくりしましたね。

よさこいは、世代を超えて一緒に汗をかき、掛け声をあげ呼吸を合わせて…、といったところがすごいと思います。3.11以降、より日本中で“よさこい”が繰り広げられたことを感じ、私自身とても嬉しく思いますし感慨深いものがあります。

――3.11直後から、被災された方々は仕事がなく稼ぐ当てのない状況が続きました。豊かな海の恵みで生計を立てていた南三陸のような沿岸の街は、また海が豊かになるまで待たなければなりません。
結局その間は、他の地域から街に来てもらいおカネを使ってもらうこと以外、収入に繋がる術はなかったと言えます。
南三陸の仮設商店街も昨年の大晦日で仮設を卒業し、今年3月には新しい商店街に生まれ変わります。これからも私は、「どんどん被災地に行ってください。被災地を見て、被災した方々に触れ、おカネを使ってください」と言い続けていきたいと思っています。

ところで川崎大師の“厄除よさこい”というのは、どういうものですか?

竹田光一さん:『かわさき楽大師まつり』は「願いごとが叶う大師(まち)」をテーマに、大師地区商店街と地域の町会、地元企業、学校などが一つになって、“おもてなし”をしようというイベントです。
古くからある川崎大師平間寺を中心に地域交流や街おこしをしながら、短冊に願いごとを書き、願いごとを叶えてもらおうというものです。歴史の浅いお祭りなのに、どこか懐かしい感じを受ける温かいお祭りです。 “厄除よさこい”もそのコンセプトに則り、街の通りを踊りながら流していくかたちで、仲見世通り・ごりやく商店街通り・大師銀座会商店街を踊り流して回ります。

実は、私は生まれた時から川崎大師様とご縁がありまして、私の“光一”という名前はお大師様に命名していただきました。ピカイチ、気に入っております(笑)!

厄除よさこい

最前列右手前が竹田さん

――生まれながらのご縁、すごいですね!もしかすると今回のリレーインタビューも、ご利益かも知れませんね(あっはっは)!!
こういう仕事をされるようになったきっかけは何ですか?

竹田光一さん:好きだからです!!
これまで20年以上、俳優の養成に携わってきましたが、剣舞を始めたのは40歳になってからです。精神統一のために始めたもので、40歳になって少し心のゆとりを大切にしたいという想いが湧いてきたんです。
刀にも触れてみたかったんです。
日本刀というのは武器ではなく、精神性の象徴であり、所作という“礼”であり“美”でもあります。

自分は好きだからやっていますが、周囲の方にその価値や重要性を気づかせて頂くことが多いですね。

――日本語学校に関わっておられるのはなぜですか?

竹田光一さん:原点に帰って、俳優をもう一度見つめ直してみたいと思い、自分自身の勉強のために始めました。
文化芸能を伝えていく者として、伝えていくことはもちろん大切なことですが、そのためにはまず自分自身がいつもピュアな状態でいなければならないと思っています。
外国の子どもたちから見た日本文化とは、どのように見え、感じ、伝わるものなのか、客観視するために初心に帰りたいという想いがまず先にありました。

――そういう精神性は、どこから生まれてきたんでしょうか?

竹田光一さん:DNAなのかも知れません。両親は、いつも私に「自分のために生きてほしい」と言ってくれました。息子が自分らしく生きていることで、親は嬉しいんだと。
両親はちょっと変わった教育方針で、勉強はそこそこでいいから伸びやかに外で遊んでおけ、塾は行かなくていい、元気に友達と遊べ。それがずっと親が言っていた教育でした。

――そうですか。この『TEAM社会企業家(略称:シャカ)』のコンセプトも、“心の底から楽しく仕事をする大人”が増えてほしいというものです。
そもそも大人というのは、子どもたちのために存在しています。つまらない顔、辛そうな顔、狡猾な顔をした大人を見て、子どもたちが楽しいと思えるはずがないですよね。
楽しくない大人は、誰のためにもならないし、自分のためにもならない。極端に言えば、子どもたちのためにならない人は“大人”とは言えないと思うんですよね。

竹田光一さん:そのとおりですね!!深いですね。
私は書道も趣味としてやっていますが、好きな字の一つが「楽」なんです。みんなもっと楽に、楽しめばいいじゃん。楽しそうな人も“苦あり、楽あり”で、色々と苦労してきたかも知れないけど、多分そういう人は『心と身体に貯金』があるんですよね。水戸黄門の歌にもありますよね。(笑)

――いいですね!元々、子どもがお好きなんですね。

竹田光一さん:そうですね、好きじゃなきゃできないですよね。

――多くの子どもたちや若者たちと接していて、どのように感じますか?

竹田光一さん:みんな頑張ってはいるけど、頑張るのは当り前でそれを超越してもっともっと楽しんでほしいなあ。そして自分の責任で行動してほしい。受け身じゃなくて攻めてほしい。
私にはモットーが3つあります。

①    まず元気を出して
②    失敗を恐れず堂々と
③    工夫して楽しむ

辛いとか苦しいとかネガティブな考えになりがちですが、それを工夫して楽しむ心をもてるようにすること。“楽しさ”に転換できる技術を身につけてほしいですね。結局のところ、みんなの笑顔が大きなエネルギーに転換されます。
生徒たちと接していて、どれだけの生徒の笑顔をもらえるか、私にとってそれは生徒たちから私への通信簿だと思っています。
一方で厳しくビシッとやったりもします。
「感を動かすことが感動」、感情をいっぱい動かさないといけない。無感情というのはロボットのようなもので、「怒れー、文句があるなら言えー、ぶつかり合えー」と感情をむき出しにさせています。
感情の開放が苦手な人が多いんです。私も昔はそうでしたが、俳優として色々な人間、様々な感情を表現していくものとして、他人を表現する前に、まず自分の感情コントロールを、プライド・羞恥心を捨てる勇気が第一歩と思います。スポーツも同様で「チキショー! ムカつく! 悔しい!」などハングリー精神が不可欠で、いつか見返してやる!とか次は勝ってやる!という気持ちが体に染み込むことが大切で、その為に努力をし、エネルギーとなり、目標に向かって精進できると実体験から強く感じています。そういった負けず嫌いな気持ちが不可欠だと思います。

あと私は“ゆとり教育”ができた時から反対でした。現に大失敗の結果でしたね。話したら長くなってしまいますが、良い教育は、伸び伸びさせなきゃダメなんです。私はそれを、「自由で伸び伸び教育」と言っています。
叱る時も、単に「ダメだ」ではなく、必ず「こうしてみたらどう?」とアドバイスが必要です。解決策をもたずにダメ出ししちゃいけない。

「ダメ、ダメ」
『じゃあ、どうすればいいの?』
「自分で考えろ」
ではなく、「こうしたらどう?」と。

そうしなければ、子どもたちはどんどん萎縮してしまいます。

どんどんやれー、どんどんやって自分で答えを見つけてほしい。色々やってみて、その上でもう少し導いていくとか。
相手のタイプに応じて、私なりに言い方を考え対応しています。答えを先に伝えることもあれば、とにかく考えさせたり。

それは、これまで何万人もの子どもたちと接してきた私なりの感覚で接しているということです。子どもたちは十人十色でみんな違います。画一的に接するのではなく、その子の家族のことなどバックボーンを見てあげないといけないんです。
例えば、個性。個性がないとかよく言っていますが、個性というのは生まれたときからみんな持っている。それを気づいていないだけであって、それに気づかせる。自分のいいところをコーチ、リーダーがアドバイスして気づかせてあげて、そこと仲よくつき合っていくということを、私もリーダーを育てる時に心がけています。

――“ゆとり教育”に対して“自由で伸び伸び教育”、初めてその違いを意識しました。

竹田光一さん:さらに先ほどの3つのモットーの進化論があるんです。それは、

①    “元気を出す”のは当り前。あなたといると元気が湧いてくるという人になってほしい。
②    “失敗を恐れず”も当り前。失敗しないで堂々と。
③    “工夫して楽しむ”ことから、工夫してみんなを楽しませよう。

このように進化できれば「プロになれるよ」って伝えています。

代表を務める『バンブーレボリューション』と

――長い間、俳優の養成・指導をされていますが、なぜこの道を選ばれたんですか?

竹田光一さん:小学生の頃まで遡っちゃいますが、私の両親はどちらも教員で、母が体育、父が音楽。何となく逆のような気がする変わった両親で、こんな子どもになった訳です(笑)。
小学生の頃、私はプロ野球選手か体育の先生になりたいと思っていました。一応、中学・高校の教員免許を取って、今は体育と音楽のミックスしたコーチをしています。
でも中学に入ったら、野球部がなかったんです(二人大笑)。都内の中学校で、単純に校庭が狭かったんですね。

それでバスケ部の先輩がカッコ良く人気があったので、それでバスケを始めました。しかし弱かったので高校では全国大会を経験したくて、強い高校に入ろうと思いました。調べたら日本一は秋田県の能代工業で、ちょっと遠いなあということで、準優勝校は東京の関東高校だった為、そこに進学すると決めました。想定はしていましたが入部してみたらチームメイトは中学時代から全国区の選手ばかりでしたので、経験値を重ねるために、彼らの何倍も練習しました。
当時は推薦で来ている選手と、私みたいに一般で入ってきた選手と、ほとんど雲泥の差で、先生も先輩も名前も覚えてくれないぐらいの差別、奴隷のような扱いでした。
ただ、私は全国大会を味わいたかったので、とりあえずベンチ入り、もしくは応援席からでも応援したいなという気持ちで入学しました。そして何でもいいから1番を取りたいということで、朝練が6時半から8時半ぐらいまであるのですが、まずは部室に1番早く来ようと。それから、ボール磨きが1番きれいにできる1年生になろう、そして水くみも回数多く行く1番になろう、部室の掃除をするのが1番きれいな1年生になろうということで、まず、できることの1番をいろいろと積み重ねることで、“ぱしり”でも1番回数を行くということで、存在をとりあえずアピールしたいという表現をまずは心がけました。

そして運よくレギュラーになり、なぜかキャプテンに選ばれ、日中親善試合の為、中国に海外遠征にも行かせてもらいました。

その後インターハイでベスト8になり、大学にスカウトされ、母校の尊敬する先輩がいるそして常に優勝候補の日本大学に進学しました。大学に入った当初は、卒業後は実業団に進み、その後は学校の先生になろうかなと考えていました。実は、いくつかの実業団からお話を頂き、ある企業に進もうと思っていたました。ところが、そう思っていた矢先に、芸能からスカウトされてしまったんです。

――街で声えを掛けられたんですか?

竹田光一さん:いいえ、モデル事務所に連絡が入りました。3年の頃からバスケに冷めてしまっていて、実は内緒でモデルのバイトをやっていたんです(笑)。数十本のCMに出ていました。
当時、私はバスケ部の寮に入っていて規則がとても厳しく、日々缶詰状態だったのでバイトができる状況ではなかったんですが、そこは上手くすり抜けながら撮影やオーディションに行っていました。
NTTやミニストップ等のCMにも出ていました。

――そりゃあ、すぐ大学にバレたでしょ?

竹田光一さん:先輩から「似てるなあ、竹田」とか言われ「ああ、何か似てますね、オレもモデルやれますかね~」なんて惚けていました(二人大笑)。
事務所のマネージャーも協力してくれて、寮にいる私に電話を入れる時は、プライベートな素振りで電話をくれたり、オーディションの時も予めバスケの練習や授業の時間を伝え日程調整してくれました。

――結局、何でバレたんですか?

竹田光一さん:大学4年の時キリンラガーのCMに受かり、年間契約の仕事で広告が駅のポスターや雑誌の裏表紙などに載り、それでとうとう「これ絶対お前だ!」って。
それでも、「似てますねー」って恍けてましたが(笑)。

そのCMを見た芸能プロダクション数社からスカウトされ、バスケの実業団はお断りしました。
そして、これまでのコート上の表現から、モニターの前やステージ上での表現に興味が沸いたのが、この道に進むそもそものきっかけでした。

      

――ご両親は理解を示されましたか?

竹田光一さん:勘当ものでしたね(笑)!! 勿論、大反対されました。
そこで「25歳までの3年間だけやらせてほしい」と言ったら、「勝手にしなさい!! じゃあ3年間だけで、その後はちゃんと就職しなさいよ……」と。
今までずっとバスケ漬けで死ぬほど練習をやって来たんだから、とりあえず3年間だけ遊ばせてよとお願いし、「3年後に通信簿をもらいに来るから、それまでは好きなようにさせてほしい」と説得しました(笑)。

――ご両親はバスケで実業団か、先生になってほしかったんですか?

竹田光一さん:そうです。両親に限らず、親戚、学校の恩師、先輩みんなそうでした。ただ弟と親友だけは応援してくれました。

――みなさんの期待が大きかったんですね!自慢の息子であり、みんなが自分のことのように自慢できる人だったということですね。
でもその人生の分岐点に立った時、ご自身の価値観で進路を決めたことに大きな意義があったかも知れません。
その後どうでしたか?

竹田光一さん:3年後に両親に通信簿をもらいに行ったら、「3年間結構頑張ったようだから、とりあえず後5年、30歳までやってみたら。それでだめだったら就職するのよ……」と言われ「わかった、ありがとう!」と。
多分、親は私の行動をずっと見守っていてくれたんでしょうね。

そして30歳になって再度通信簿をもらいに行った時に、「ここまでやったんだから、ずっとやんなさい」と言ってくれたんですが、正直な気持ちは、なんか複雑な心境でした。嬉しい気持ちなんだけど不安な気持ちの方が勝っていたようで、でも迷いはなく、「よっしゃ!」と決心し今に至っています。

表現者は裸一貫で生きています。守るものは自分の身一つです。
そして、私のアイデンティティは教育がベースなんです。

また小さい頃から自分のことよりも、他の人が喜ぶ姿を見るのが好きでした。なぜか学級委員やキャプテンに選ばれていましたが、いつも他薦でした。自分から立候補したことはなかったんです。きっと使いやすいやつだったんですね。

――ご自分から手を上げそうな感じですが、人望が厚いんですね!
今後どういうことをしていきたいですか?

竹田光一さん:大きい夢ですが、エンターテイメントを通じて和文化や教育など、海外との懸け橋になっていけたらいいですね。例えば海外に行かなくても、国内の大使館などを巡って和文化を表現し、その国の人たちに知って頂き、そこで一緒にコラボしたりしたいですね。

今後さらに日本の企業や大学は、世代間交流・異文化交流・地域貢献をしていかなければならないし、もっともっとオープンにして外国人を受け入れていかなければならないと思います。
何かのイベントの際も必ず外国人を招待しよう!近くに日本語学校があったら是非招待しよう!めっちゃ喜びますよ!
彼らは日本の文化を、見たり触れたりする機会がないから知らないだけなんですよ。

そういう機会が身近で増えて行けば、外国の若い人たちはもっともっと日本の文化に興味をもってくれるようになります。

これからも私は、クールジャパン。“よさこい”や“剣舞”など、他にも周りには素晴らしい表現者もたくさんいますので、その方々と一緒に、今後も和文化を知って頂き、海外との懸け橋になれるような機会をつくっていきたいと思っています。

――これからも学校教育とは異なる視点で、世界中の子どもたちの笑顔を呼び覚ましてください!
ありがとうございました。

ご自身の『コーチング・リーディング(人を育てる・人に伝える)』から

『おもしろき こともなき世を おもしろく・・・』
なぜか高杉晋作の辞世の句が浮かんできました。

時々私は、幕末の時代に生きていたら、どのような一生を送っただろうと考えることがあります。
竹田さんとお話ししていて、竹田さんがその時代に生きていたらどうだっただろうと想い、ニヤッとしていました。

一言でいえば、“昇華”した人生を送られたのではないか。
そう思えるほど、常に純粋に、自分に何かを課して生きてきた方だという印象をもちます。
そして、そこにはいつも“礼節”を重んじる精神が息づいています。

そんな竹田さんが子どもたちに伝えていることは「楽」。

一途に、プロとして歩んできた方だからこそ言える、”境地”なのでしょう。

■竹田光一さんのプロフィール

秀林日本語学校 日本語非常勤講師
東京スクールオブミュージック&ダンス 非常勤講師
千葉学芸高等学校 芸能コース 非常勤講師
練馬区立大泉西中学校 演劇部 外部指導員
かわさき楽大師「厄除よさこい」 PT代表
KANAGAWAよさこいwith龍馬会 理事
日本演出者協会 会員
菊秀流 秀幸館 会員 (全国日本剣詩舞道3段)
KTspace 代表
バンブーレボリューション 代表 (よさこいチーム)
レインボーコンサート プロデュース

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