望月倫彦さんへのリレーインタビュー

株式会社 聖地会議代表の柿崎俊道(しゅんどう)さんからのリレーインタビューは、『文学フリマ』事務局代表の望月倫彦(ともひこ)さんです。

『文学フリマ』とは、文学作品の展示即売会です。2002年11月に第一回文学フリマが開催され、今では文学ファンに限らず多くの方から親しまれ、開催地は全国に広がりつつあります。そこには文学フリマがもつ社会的な意義があり、望月さんが描くビジョンがあります。
第一回開催時、望月さんは一参加者でした。そして翌年11月の第二回から、事務局代表として主催されています。当時、まだ大学院生だったといいます。

文学青年というよりも、文学界の先行きを見据えたビジョンの実現に向け活動される望月さんが、想い描く世界とはいったいどういうものなのか。インタビューは手探りで進んで行きました。(聞き手:昆野)

――『文学フリマ』は何が発端で始まったのですか?

望月倫彦さん:文学フリマというイベント自体は、2002年に最初に開催されました。第一回は大塚英志さんという評論家の方が提唱して、文学というものが商業的に弱体化していると言われている中で、必ずしも従来の商業出版だけじゃなくて、それとは違う販路、市場をもう一つつくってみたらどうかというのが発端です。 マンガにはコミケ(コミックマーケット)などがあるように、文学においてもそういったことをやってみたらどうかという呼びかけで開催されました。
当初から、大塚さんはご自身が開催するのは1回限りであり、続けたい人がいたら有志を募るので名乗りでてほしいと宣言し開催されました。

――その時、望月さんは?

望月倫彦さん:第一回は、一参加者でした。そしてその時のイベントに共鳴して、引継ぎボランティアに名乗りを上げました。何人も名乗りを上げた中の一人でしたが、色々と思うところがあって、私が代表として引き継ぐことになり2回目以降私が代表で続けています。今年で15年目です。

――今では、東京以外でも開催されていますね。

望月倫彦さん:2006年に名古屋で開催されましたが、名古屋の開催は1回限りでした。初回から毎年東京で開催してきましたが、2011年は、3.11の3か月後に開催しました。その頃から、東京だけで開催することに疑問を感じ始めていました。その時すでに東京以外でも開催してほしいという声がありましたが、それまでは集客数や規模などが読めないということで考えるところがありました。
ただ東京で震災等があった場合、文学フリマの運動はそこで途絶えることになりかねない。実際、東京以外の地域と繋がりをもたないこと自体、イベントの持続可能性にも影響してくるしコンセプトとしても疑問を感じていました。

そして、他の地域でも広めていこうと考え進めていって、2013年に大阪で開催して手ごたえを感じました。非常に反響が大きくて、想定以上に人が集まりました。それから間もなくして、『文学フリマ百都市構想』というビジョンを掲げました。

――なるほど。全国至るところで展開していくということだと思いますが、具体的にどういう狙いがあったんですか?

望月倫彦さん:百都市構想は、文学フリマを全国各地に広めることで、文学のみならずすべての文化・芸術活動をより身近で、より豊かなものにすることを目指しています。具体的には、
・地域を越え、世代を超え、作者や読者の垣根も越えた交流によって新たな創作者を生み出す。
・地域同士の結びつきで創作の輪をひろげ、芸術の愛好者を生み出す。
・地域に根付く豊穣な文化に触れる機会を作り、それを受け継ぎはぐくむ継承者を生み出す。
ということを目指しています。

――それぞれの開催地では、どういう人が主体になるんですか?

望月倫彦さん:やりたいと言った人です。

――いいですね。でも多くの出店者や来場者が集まるイベントなので、いざ開催するとなると初めての人は結構たいへんですよね。特に、文学好きの男子女子は、あまりイベントとか得意とは思えないので。

望月倫彦さん:そうなんです。ですから、東京開催で培ってきたノウハウを提供しています。コンセプトを共有した上で、出店者を募集し受付してデータ化し、参加費を徴収するフローまでのシステムをつくっていたので、共有して使えるようにサポートしています。マニュアルだけじゃなくてシステムを相乗りできるので、参加者への資料送付の宛名印刷等も共通化しています。

――百都市構想を掲げたのが20014年12月ですね。すぐに東京、大阪以外の都市で名乗りを上げる人が出てきましたか? 

望月倫彦さん:その時すでに、翌年4月の金沢や10月の福岡開催が決まっていました。ですから百都市構想をぶち上げた時には、全国展開のスタートを切っていたので、さらに続く人たちが出てきてくださいよというメッセージになった訳です。
実際、2017年には下図のように全国8か所での開催を予定しています。

―― 一気に来ましたね!根強いファンが多いということと、やはりサポート体制がしっかりしているということでしょうね。
ところで2代目代表になられたのは、どういう理由からでしたか?

望月倫彦さん:そもそも、初代の大塚さんの主張に共鳴するところが大きかったんですが、第一回の文学フリマに参加して、とにかくものすごい熱量を感じたんです。多くの人が、「こういうイベントを待ってたんだ!」という熱量がありました。「これは続くな」、そう確信しました。この運動は今後もいけるな!と確信し、さらに続けていかなければならないという使命感を感じて名乗りを上げました。
その当時私は大学院生で、暇という訳ではないけど他の人たちよりも時間の融通が利き易かったので、立場的に自分がやった方がいいかなと考え立候補しました。

――実際、代表としてやられてみてどうでしたか?

望月倫彦さん:先ほどお話ししたように、文学フリマ開催の発端は大塚さんによる提唱ですが、それは「不良債権としての『文学』(「群像」2002年6月号)」に掲載されたことによるものでした。当時すでに、文学はダメだダメだと言われて久しく、本も売れなくなってきましたが、それでもこれだけの人が集まって来るということに、すごく意義のあることだと感じました。例えば、純文学だったら初版3000部だと言っている時代に、文学フリマには1回の参加者が3500人ほど集まります。実際、そこに人がいるじゃん!という訳です。

文学フリマを続けることで、本を読む人や、自分から小説を書く人が増えていけば小説や評論、詩歌の世界の底支えをしていけるのではないかという気持ちになってきました。 自分自身も、文学フリマを続けることで、その可能性に気づいていきました。そういう意味では、参加者に教えてもらったという気持ちになりましたね。まだまだこのイベントは可能性があるな、まだやれることがあるなという気持ちになっていったということだと思います。
また現時点で他に替えがないイベントだとも思っています。“文学フリマしか成し得ないものがある”、そう思っています。

――毎回、出店されている人も多いでしょうね?

望月倫彦さん:そうですね。ただ実際の申し込みをみると、約3割は新しい人たちがいます。東京の申し込み数は横ばいで、750~800ほどで推移しています。その中で3割程度が新規です。イベントの持続性を考えると、9割同じ人だとあまり意味がないので、いいことだと思っています。

――文学フリマでは、文学の定義を参加者自身が決めることにしていますね。面白いですね。

望月倫彦さん:実は、そこがこのイベントのミソなんです!
つまりコンセプトの部分を参加者に考えてもらうということなんですね。例えば「こういう絵本を描いている者ですが、このイベントに出してもいいんでしょうか?」と問い合わせがあります。 文学という文字を見て敷居が高いと思う方もいて、言ってみれば一定の敷居を敢えて残しておいて、自分にとっての文学とは何かを参加する側に考えてもらう仕掛けになっているんです。

――面白く、かつ意味深いですね。

望月倫彦さん:そうですね(笑)。自分にとっての文学とは何かを考えてからじゃないと、文学フリマには出店できない。だけどこちらから何かを提示している訳ではないので、参加者自身がよければそれでOKなんです。つまり規制や縛りは設けていない。そこが面白いと思います。
ハードルの1面だけ見ればルールは設けていないのでハードルは低い、他方、文学とは何かという自分の中で何かをもっていないと申し込みできないということになります。このイベントのコンセプトとして狙っていることでもあります。ですから参加者は、あまりブームに流されない人たちだと思っています。

――間口が広いので、参加者はプロ並みの方など様々なんでしょうね。出版社の方が掘り出し物を探しに来ることも多々ありそうですね。

望月倫彦さん:実際、プロが紛れ込んでいることも多く、お試し感覚で出店していたりします。つまり実験場です。また大学のゼミが、作品を完成させても誰にも読んでもらえなければ意味がないと、ゼミの生徒がつくった本を出店したりしています。 編集者の方も結構来ているようです。プロの方が、「こんなに知り合いに会うイベントはないね」と言っていますから。
一方で、歴史的な出会いの場になることもあります。

――歴史的な出会い、どういう出会いですか?

望月倫彦さん:2011年6月に早稲田文学という早稲田の文芸誌のチャリティサイン会に、中村文則さんが参加されていたんですが、そこに又吉直樹さんが中村さんのサインをもらいに来られたんです。
そこにいた文芸春秋の方が又吉さんに声を掛けて名刺交換をし、後日、連絡をして又吉さんに小説を書きませんかと打診をしたというのです。しばらく又吉さんは断っていたようですが、編集者が何度も説得したら「じゃあ書いてみます」となって、後の『火花』、芥川賞に繋がる訳です。

文学フリマがなければ、芥川賞作家 又吉直樹氏は存在しないということになる訳です(笑)。そういう場として機能しているのかなと思います。

――“機会が生まれる場”ということですね。

望月倫彦さん:また最近、扶桑社からこだまさんというブロガーが『夫のチンポが入らない』という本を出して結構売れています(笑)。
それも元々は、文学フリマに出した同人誌だったんですよ。それを扶桑社の方が見つけて商業出版した。その本の売り文句が「あの文学フリマで即完売した、伝説の名作!」というものなんです(二人大笑)。
そういう空気ができつつあるのかなと思っています。

――これからさらに、『文学フリマ百都市構想』をどのように具体的に展開していきたいですか?

望月倫彦さん:まあじっくりやって行きたいですね。百都市構想という名前自体は、大仰と言うか、そりゃムリでしょみたいなことも言われますし、比喩表現と捉えられることもあります。
ただ『文学』を掲げてイベントのコンセプトにしている以上、2・3年や5・6年のスパンで物事を考えてもしょうがないと思っています。示すべきは長期的なビジョンだと思います。特に今の日本は2020年のことばかり考えていて、その先のことをどうするのかすごく疑問を感じます。これはスポーツに限らずそういう風潮がまかり通っているような気がしていて、文化芸術についても同じことが言えます。
私たちは、そこに惑わされずに、そこじゃなく50年100年のスパンで考えていくものだと思っています。ですから百都市構想は、50年掛かろうが100年掛かろうが本気で達成したいと思っています。

――何年掛かろうがやるべきことがある。いいですね。

望月倫彦さん:実際、今8か所で開催してみて、本当に可能性を感じています。その街々にアイデンティティがあるので、ちゃんとこちらが地に足の着いたカタチでやって行けばできると思っています。
ブームに乗ってやる訳ではないので、例えば前橋で開催する時に、周囲は何で前橋なのといった感じでしたが、萩原朔太郎が生まれ育ったところで文化的風土も強いし、今でも朔太郎の研究会が前橋で行われています。そういった根強い文化があります。そういうことから、現代詩をつくった一人である朔太郎の街で開催する意味はあるんです。

盛岡の場合は、文学フリマ岩手としました。岩手という響きの中に宮沢賢治やイーハトーブというものがある。その時も、何で仙台じゃないのと100人ぐらいから聞かれました(笑)。東北で最初にやるのは仙台でしょと。いや、岩手と言えば宮沢賢治や石川啄木を生んだところで、最適な場所ですよと答えるんです。そうするとほとんどの人が納得します。なるほどね、と。言ってみれば二大巨頭がいるところ。そこでPRできました。

――地元の方が中心になって開催する場合、独自性を発揮しようと工夫すると思いますが、その点はどのようにサポートされるんですか?

望月倫彦さん:実は独自性の強い文学フリマを、誰も求めてはいません。その地域の特徴はあれど、主催者が恣意的に行なったり押し付けるものではなく、あくまでも参加者が生み出すものなんです。参加者に委ねる。「文学とは何か」を委ねることと同様に、地域ごとの文学フリマも参加者がつくるもの。文学フリマたらしめる部分は守らなければなりません。百都市構想を進めていく上で、矛盾するようですがとても大事なことなんです。

――意図的につくり上げるというよりも、醸成されるものという感じですね。

望月倫彦さん:一方で、ブームに乗ったり熱狂に流されてしまうと、持続性のあるものにならないと思っています。例えば、岩手で開催する時に復興という冠をつけたくないなと思っていました。復興のためにとか、そういう売り出しみたいなことは避けたい。言ってみればキャッチコピーになってしまいますから。
昆野さんを前にして少し言いづらい面もありますが、私は復興自体に熱狂のようなところがあったと感じています。熱狂のようなものに流されていては、本質が変わってしまう。私たちは本質を見失わないように、一つひとつ地に足の着いたカタチで進めて行かなければなりません。

――復興については、最近特に変な力が見え隠れしているなと感じています。今年3月3日に『南三陸さんさん商店街』がオープンした時の報道に、“復興の象徴”と書かれていました。一つの成果としてアピールしたいという政治的な匂いを感じます。

望月倫彦さん:そうなんですか。確かに恣意的なものを感じますね。ある意味、熱狂によって大きな寄付が集まったのも事実なので一概におかしいとは言えませんが、便乗的なものにしてしまうのは、何か危険だなという気持ちがあるんです。

――元々、小さい頃から文学に興味があったんですか?

望月倫彦さん:比較的文化系の家庭に育ったと言いますか、家に本がたくさんあるような環境でした。小さい頃から本はよく読んでいましたし、映画もよく観ていました。

――どんなお子さんでしたか?

望月倫彦さん:自分としては、まあ変わった子どもだったと思います(二人大笑)。

――ああ、そうなんですか(急に話の流れが変わってきた)。

望月倫彦さん:とにかく勉強ができることとは別の意味で、やたら色々なことに詳しい子どもでした。雑学王、クイズ王とかよく言われていました。やたら色んなことを話していたので、「何でも知ってるねー」みたいなことをよく言われる子どもでした。

――どのような家庭環境だったんですか?

望月倫彦さん:父が大学教授で、母はシャンソン歌手です。とても文化系な環境でした。母はゴリゴリの左翼ですよ(笑)。父は都市建築学をやっていて、要するに街おこしとかでゼネコン等と付き合いが合ったりするので、どちらかというと保守系ですね。そういう意味では異なる思想のもとで育った感じです。
思想的には母の影響が色濃いと思いますが、一方で百都市構想を立てて全国各地に広めてその街のためになればいいと思ってやっていることは、父の思想に近いんです。

――何となくご家族やご家庭が、他とは違うように思えるんですが(笑)。

望月倫彦さん:まあ、そうですね(笑)。

――子どもの頃は他の家庭を知らないので、当たり前だと思っていたことが、ある時突然自分の家族だけが違うのかって思うことがあったんじゃないですか?あくまでも推察ですが(笑)、ありそうですね。

望月倫彦さん:ありますね、ありますね(楽しそうに)。うちの親は他の親のことをあまり気にしないというか、特に母は無頓着なんです。
これは兄のエピソードなんですが、小学校低学年の時に持ち物チェックとか言って、ハンカチを持っているかの検査があり、毎日先生が〇×をつけていたんです。普通の家庭はアニメキャラのハンカチとかを子どもに持たせるのですが、兄は毎日母から、普通の会社員が持つような白いハンカチを持参していたんです。ある時隣席の女の子が昨日と同じやつだ、洗ってないんだーとか言い出して、先生もそれを聞いて×をつけた。それが何日か続いたらしい。ある日、母がそのことを知って学校に怒鳴り込んだんです。母は「そもそも子どもなんて忘れ物をして当たり前であって、毎日こんな〇×つける方がおかしい。子どもの自由を阻害している。そんな息苦しい教育は間違っている」と。
以後、学校から相当危険視されたようです(二人大笑)。 ちょっとノリが違うというところがありました(笑)。

――暖かなご家庭ですね!ところで、今の子どもたちを見てどう感じますか?どうあってほしいですか?

望月倫彦さん:相反する想いがあって、こういう活動をしているので、紙の本の手触りという感触を引き継いで伝えたいと思う反面、小さい頃から電子書籍を読んでいる子どもたちにとっては紙の本と変わらない感覚で読んでいけるんだろうなという想いもあります。
私たちは、大人になってから電子書籍を手にしたので、それを受け入れられない部分があったりしますが、子どもの時から体験している世代であればそういう壁なんかなくて、当り前に読みこなせるんじゃないかと思います。それはそれで可能性のある未来という気もします。
だから子どもたちには、紙の本の手触りを好きでいてほしいということと、電子書籍で制限なく自由に作品に触れられる世代になってほしいということの、2つの気持ちがあります。
いずれにせよ、進歩したなら進歩した時代に適合した楽しみ方で、存分に楽しんでほしいと思います。

――子どもたちには思う存分楽しんでほしい。そして心豊かな大人になってほしいですね。

望月倫彦さん:ただ他方では、例えば『モナリザ』をPCのモニターで見たからといって、それで『モナリザ』を観たことになるかと言えば、そうではない。知識として得ることにはなるが、作品を鑑賞したことにはならないと思うんです。ロダンの『考える人』を写真で見たからといって、それは観たことにはならない。
文学の世界でも、詩や短歌というのは限りなくそれに近くて、単なる五七五のテキストデータが繋がっているものをモニターで見ることと、五七五が改行されて本で見ること、あるいはその作品に沿った装丁でつくられた詩集や句集を読むことは、体験として違うんだろうなと思う訳です。
特に詩は違います。改行の意図があるので、ここでどれだけ行が空けられているとか、詩の世界ではそういうことにもちゃんと意味があるんです。

――ご自身の夢は?

望月倫彦さん:柿崎さんと同様に30秒ほど黙ってしまいそうな質問ですね(二人大笑)。
下世話な話しですけど、文学フリマはボランティアで運営していますし、出店者も儲けている人はほとんどいないでしょう。本来は市場として成立して、皆が儲かるようになれればいいなあと思っています。赤字のものって、何でも続かないじゃないですか。たとえ100円でも200円でも、おカネが回るようにしたいですね。
一方で私自身、文学フリマは趣味の範囲でやっていることではあるんですが、私のやっていることがどのようになれば報われたことになるのか、ゴールなのかと思うことがあります。その意味で、百都市構想が達成されることが夢の一つなのかな。

もう一つが、文学フリマで作品を出店された方が世に出て、メジャーになって、文学界を文学フリマが変えたというところまで行ければ、文学フリマがあったから日本の文学が変わったと言われるようになるかもしれません。

――そもそも百都市構想は、何十年・何百年掛かるかわからないけどやり遂げたいという想いなのでしょうから、ご自身で見届けるというよりも受け継がれ実現していくものなのでしょう。
お互い、道半ばで斃れる。それが、本来の人間の生きざまじゃないですか(笑)!
今日は楽しいお話しをありがとうございました。

数年前から、望月さんは釣りを始めたそうです。
もっぱら磯釣りで、ライフジャケットを装着し一人で波を被りそうな岩場に行かれるようです。一緒に釣りに行った人たちがもっと手前の安全な場所に止まっていても、一人でグイグイ先に進んで行くそうです。確かに釣り上げた時の顔は、荒々しさを感じる別人のようにも見えます。

「釣りはアタマの中を空っぽにしてくれますからね」と、釣り知らずの私が言うと、望月さんは「そうなんですよ」と答えてくださいました。

インタビューでも、中長期的な観点から文学の行く末を考えておられることが十分に伝わってきます。受け継がれていくことの大切さを知り、繋がっていく世界の中でご自身の役割を理解され、より良い次世代社会を想い描きながら活動されている方だなと感じます。そして、そこにはいつも強い独創性があることに気づかされます。

ご自身は子どもの頃のことを、「勉強ができることとは別の意味で」と前置きをされていましたが、知識欲が旺盛で、何でも吸収できる柔軟なアタマがあり、そういう望月少年を頼もしく受け入れてくれる家庭環境があったからこそ、独創性が育まれていったのだと感じます。

“生き方自体がアート”。望月倫彦さんは、そういう生き方をされている人でした。

■望月倫彦さんのプロフィール

文学フリマ事務局代表。1980年生まれ。
2002年、第一回文学フリマに出店者として参加し、翌2003年の第二回文学フリマより文学フリマ事務局の代表を務める。日頃は催事運営会社でイベントディレクターとして勤務。ライターとしても活動している。

文学フリマ公式サイト
文学フリマFacebook