演劇人の幸福論2

「我を忘れる幸福感」

1000人の観客の前でも心身の自由を得て、舞台というキャンバスに人間の光と闇を描いていく俳優。これは緊張との闘いだが、舞台では戦うと負ける。緊張は攻撃から自分を守るための自意識からつくられた、誰にも心を開かない孤独な心の鎧だ。この鎧を脱がねばならない。戦うのではなく自己保存を手放し、意識の集中を自分以外の対象に「移行」させる。演劇のレッスンにはこのためのテクニックがたくさんあり、リー・ストラスバーグ先生も見事なまでに開発している。厄介なのは、自意識の鎧は様々な形であらわれ、本人に見えにくいことだ。普段から自らの心の中に今、何が起きてるのか意識的に観る訓練が必要となる。ユングが言うように、心の中は2重3重に意識の層があるからだ。

誰でも評価という結果ばかりを気にするところに陥りやすい。周りと自分を切り離し、相手の言葉が本当には入ってこなくなり、孤独になるので体は硬直する。結果にのみこだわると相手は勝ち負けの敵になり、稽古というプロセスを楽しむことができなくなる。それでは創造の時間は生まれない。稽古は時間の無駄となる。たとえ悲劇を演じているときでも心のどこかでは楽しめと、リー先生は言う。アスリートでも自分の金メダルだけにしか関心がない場合、練習というプロセスはただの苦しみとなる。よしんば金を取っても練習のプロセスを楽しめなければ幸福じゃない。受賞は一瞬の喜びに過ぎないからだ。

リー先生のテクニークの一例。小さい劇場で、舞台から観客の顔がみえ、目の前に辛口の友人や、親や、テレビ局の人がいて、目が合いそうな時。その時、舞台袖で小さく指先を動かし、それをみつめ、「ほら、私はそれでも今生きてる」と意識を指先に集める。ラグビーの五郎丸選手はこの方法だ。それでも追いつかない時は普段培っておいた、飛躍する心の力をつかう。意識の範囲を広げ、自分が支えられている宇宙森羅万象に感謝し、今演じようとする役の人生や、共演者、スタッフなど、他者の痛みや喜びに関心を移行させるのだ。自己保存から離れるという自由を獲得し「我を忘れた」、自分の頭のハエ(緊張)をおえないのに他者を想うおめでたい人が、舞台に花を咲かせることができる。これが俳優の幸福感だ。心の鎧を着たままでは、俳優は不幸で、不自由なもの言うロボットになる。それではセリフが持っている言霊は伝わらない。ちなみにリー先生も、芸術家はいつも宇宙を想えと言ってます。そして、ひたすら役を想い、一心にその痛み、喜びを理解しようと稽古して本番を迎える時、俳優は「我を忘れる」。この「我を忘れる幸福感」がなければ、俳優は花を持てず、世界に貢献できることはない。

最近、ある事件をきっかけに昔に体験した違和感を思い出した。今回の事件は私の曖昧さが引き起こしたものだが、通常の問題解決のプロセスを省き、アメリカ的「ビジネスライク」を用いてしまった。久しぶりに徒労感を感じた。いつもは解決後、自分の成長の方向、改善点が見えてすがすがしい気持ちになる。そして疲れを感じることはない。たとえ判断の間違いをして損失を出しても、曖昧さから行き違いを生んでも、自分の未熟さへの気づきがあり、ときにはその機会をくれた相手に感謝することさえある。自分と相手の新しい未来を想うことができるすがすがしさがあるからだ。今回は違った。面会を願い出たが「大人は忙しい」とのことで、私は急いで「ビジネスライク」に問題を終わらせるべく犯人捜しをし、犯人である自分を裁いておしまいにしてしまったのだ。

あのときの違和感が蘇った。それは30年前、移住を決意しニューヨークに降り立った日、立ち寄ったウオールストリートにあるストックマーケットの見学フロアーから見た風景だ。それは、アリ塚を蹴散らしたときのような喧騒だった。強い違和感があった。お金のために狂気の動揺をしていて人間らしい心はどこかに飛んでしまっているように見えた。その後、トランプタワーの前を通ったとき突然「このままでは世界は滅びる」という予感がした。日本に戻りたくなった。当時は、トランプさんのことは知らなかったけれど。

私たちは今、人間性の中心にある「信頼」や「慈しみ」や「友情」といった感情を捨て去り、経済性だけを考え、それらの感情を「甘い」「おめでたい」「子供っぽい」「弱い」と置き換え、自己保存を脅かすものとして、そしてそれは負け犬の暮らし方とばかりに葬り去ろうとしているのではないか。損か、得か、勝ったか、負けたか、契約書にあるかないかだけが判断基準、価値基準のアメリカの「ビジネスライク」の真似をしてきて、それが心にしみ込んできている。自国の経済のことだけを考える冷たく硬直したアメリカ的繁栄を目指すなら、人類の最大の不幸がやってくるにちがいない。「我だけを忘れない」アメリカに習ってはならない。

なにがあっても「我を忘れて」おめでたく幸福になろう。栄子さんの生き方は心が自由でかっこいい。苦難を強いられる人生に、花を咲かせて輝いている。80歳すぎても疲れを知らない。お米と味噌と野菜だけで、友情という英知をもってあちこちに我を忘れて走り回っている。この写真はドキュメンタリー映画「飯館村の母ちゃんたち土とともに」の栄子さんです。栄子さんたら、ここまで来たら「笑うっきゃない!」ですって。