演劇人の幸福論「願いがあるということ」

冬の朝の5時は暗い。寝たきりの父が大声で私の名を呼ぶ。88歳の、やせ細った身体からよくあんなに大きい声が出る。私はそのたびにゾッとして、びくつく。嫉妬に狂った父が刃物を持って暴れたときの少女時代の恐怖体験が蘇る。父はよく気の利くユーモアのセンス抜群のハンサム男で、もてにもてた。次々に浮気をし、母を泣かした。母は、ほかの人によりどころを求め、修羅場が始まった。ものごころついた時から夜毎の派手な喧嘩が続き、何ともドラマティックな寝不足の少女時代だった。けれど、頭では父に感謝している。この、ドラマティックな父の下に生まれなければ、わたしは演劇人にはならなかったと確信しているから。ただし、やっかいな身体の記憶は反応を起こしてびびってしまう。だから心から感謝したいのに私は父に感謝できない。温かい人になりたいのに冷たい心の人になる。そんな自分が嫌でイライラしながらオムツを換える。嫉妬に狂い、はだしで男を追いかけ真夜中に大通りを大声をあげながら走っていたあの人が、今はこんなふうに変わり果てて死んでいくのか。人生の終わりとはこんなに情けなく寂しいものなのかと、自分の未来まで思い、長生きしたくないと、時折わたしは暗くなる。このような人生の終わり方を見たくなくて施設にお願いする人も多いのだろうと思う。思わず老人ホームのパンフレットを取り寄せてしまった。

今は物言わぬ人となった父の人生。自由に若い女の人と遊び、お酒を飲むことが、幸せだとしばしば口にしていた。母に向かって「ワシが稼いだお金、ワシが使って何が悪い」などと鹿児島訛りでふんぞり返っていたのは30歳前。元気をあり余していた。ある晩、いつものように飲んで帰ると3人の子供が母親とともに消えていた。万年お抱え運転手で、地下の駐車場の排気ガスの中、夕方を待って飲んでさわぐ毎日だった。人生に目的も願いもなければ、残る目的は快楽の開放のみだ。それは不幸への道となった。それからは、たまに会うと昼間は「しあわせだ」とうそぶき、夜は酔って「さびしいさびしい」と言っていた。そのとき私は軽蔑のまなざしで父を意地悪く睨んでいたに違いない。いとしい娘に睨まれてどんなに悲しかっただろうか。忘れてしまいたいことがいっぱいあって、鹿児島に一人戻り、やがて認知症になり、東京に戻された。怖い顔の長女の私が彼の担当ナースとなった。

新しい年の初めにメナヘム・プレスラーという94歳のピアニストのインタビューを観た。迫害を逃れるため、ドイツからパレスチナ、そしてアメリカへ亡命し、80歳を過ぎてドイツに帰化したという。なんと90歳でベルリンフィルのソロピアニストを担うことになったという。演奏している時の表情は衝撃的だった。演奏も表情も信じられないほど美しい。目がキラキラしている。うっすら汗ばみ、顔がつやつやして輝いている。人生や人間存在の不思議とその美しさ、苦しみ悲しみを語るようにショパンを弾く。見たこともないほどの名優の一人芝居をみているかのように、わたしは、うん、そうだね、そう、そう、と頷いてしまう。言葉にならない言葉がずしずしビンビン伝わってくる。高橋佳子氏の詩の一節「人間の本当の喜びは内なる永遠を外なる世界に結晶させることにある」を想起した。

80代で大病をし、どうしても演奏を続けたいと手術をしたという。誰よりも積極的にリハビリをし、この年齢では信じられない速さで復帰を果たす。このエネルギーの源は何か。自己保存のエネルギーだけではこうは続かない。後輩へのレッスンの様子は、愛と磨き抜かれた言葉と、若い人から見えない力をを引き出したいという情熱にあふれていた。困難を潜り抜け、よき人生を送る人の後ろにはいつも、他者の未来を想う切実な願いが見える。90年の人生体験をすべて使ってベートーベンや、ショパンを深く理解し、それを伝えたい、人々を勇気づけたい、支えたいという芸術家の魂がメナヘム氏の全身を動かしている。この思いで一日も辛いリハビリを欠かさなかったのだ。これは芸術の力でもある。私も芸術家だ。たとえ端くれでも、こんなにすばらしい94歳にはなれなくても、もう、決して長生きなんてしたくないなんて思わない。患者さんのために105歳まで走り回っていた日野原重明先生と、芸術のために何度でも蘇ったプレスラーさんにあこがれて、一日一日、我を忘れて汗をかき動き回りたい。父の悲しみを受け止めたいと思ううちに、自分の願いがはっきりしてきた。今度こそこの贈り物を父に感謝しなければならない。

ベランダの向こうにフキノトウが!ちょっと踏まれた跡があるのね。