直近の未来を予測する

                  「友人が拾いし胡蝶蘭 今年も咲いて 感謝知らしむ」

今まさにこれから本番という時、出演者の一人ひとりに自己ベストを尽くしてもらうために言葉かけをすることがある。十分な稽古のなかですべて伝え、直前には何にも言うことがないというのが一番いい状態だが、求められれば何か言って力になりたいし、求められなくても何か言いたくなることもある。

先日は失敗した。ゲネプロといって本番どおりやってみる稽古で主演の俳優に「そこは顔をあげないで言ってください」といった。通常「これこれこうだから、顔をあげずに言う方がいいかもしれない」というような言い方をするところを、直接指示するような形でいってしまったのだ。相手にはある種の迫力で圧迫感が伝わってしまった。その時の私の心を思い返すと「あー、しまった!ほかのことに気を取られて大事なことを伝えておくことをわすれてた!」という焦りがあり、それが大きく混じってしまった。ほんの一瞬の表現であっても俳優が自分で考え選択し行為したものでなければその表現は輝かない。やらされてやったものは取ってつけたものになる。終了後、気になって声をかけるとその俳優に「怖かった」と言われた。演出のこわい顔は、俳優にとってほとんど暴力なのだ。強制されたものに魂は入らない。もっと良いものにしようとして言ったことが俳優の足を引っ張るという失敗をした。これでは、おとなしく観念して客席の隅で孤独に耐えていた方がどんなによかったか(笑い)。

集団のなかで何かを判断し決めなければならない立場にあるものは、日ごろからタイミングを見る力と直観を磨くことはもとより、なによりも、くるくると動く自分自身の心の状態をよく見ておかなければならない。言葉以上に瞬間の心のありかたが、その場の空気を変え、他者に伝わり、直近の未来をこわしもするし創造もする。だからそれがわかると、直近の未来を予測することができる。

自分の心を掴んでおかなければ培ってきた専門能力や、技術も役に立たない。波風立たないように表面的に怒りや不満を押さえつけ、ポーカーフェイスを装うことを言っているのではない。ポーカーフェイスは混乱を招くだけだ。時間の迫りくる中で相手を的確な助言で支えたいと願うなら、厄介な自分の心の動きを研究し観察する日ごろの積み重ねしかないのだ。そして、崖っぷち、エッジに立った時ほど、ごまかしようなく人間性が現れてしまう。挫折を積み重ねる以外に人間性は磨かれることはない。崖っぷちを好んで咲くイワカガミのように選んでがけっぷちに居なければならない。世阿弥の言う「花」を、俳優に舞台で咲かせていただくためには、演出は、ひっそりと、だれも見ない高山の花のようでなければならないのだろう。私はあこがれのイワカガミにまったく及ばない。直近の未来を壊し続けている。けれど、挫折と後悔を智恵に変え、崖っぷちに立ち続けることはやめない。