あの時死んでいたら

私は自殺をしようと思ったことは一度もないのですが、命を断たれるような出来事は何度かありました。

これまでのリレーインタビューでも触れていますが、最も危なかったらしいのが25歳3ヶ月の時の病気によるものでした。「危なかったらしい」という曖昧な表現になるのは、自分ではわからなかったからです。
その年の3月9日に入院し2か月間病院にいましたが、自分では死というものを意識することは一度もありませんでした。入院後1ヶ月以上経ってから、入院4日目の病院内の申し送りで「若いのに可哀そうにね」と言われていたことを知りました。「へえ、そうだったんだ」と、私が答えたことを覚えています。
呑気なものです。

その頃の私は、生にも死にも結構無頓着だったのではないかと思います。ただずっと何処からか聞こえて来るのか「これでもお前はわからないのか」という言葉というか響きでした。何度も何度も言われているような気がしてなりませんでした。

この25歳の時はA型の急性肝炎で入院したのですが、実はその3年前の1月2日に自爆事故を起こして車を大破し、アタマでフロントガラスを割っていました。幸い丈夫なクルマだったので、ガードレールのポールを抜いて押し倒し、田んぼに飛んでいきましたが奇跡的にムチ打ち程度で済みました(3年後に、首の骨が3か所ズレていることを知りました)。
原因は、居眠り運転です(笑)。
無謀な性癖があります。

その事故は正月2日で、私はその年の4月1日から入社し働くことが決まっていて、4月末に福岡勤務となり福岡在住3年目にウィルス性の急性肝炎に感染したということです。
ですから私にしてみると「事故の次は病気かよ」という感じで、何かが私を生きることに目覚めさせようとしていると思えてなりませんでした。

3月9日に福岡の済生会病院に入院した私は、1ヶ月程経ってから少しずつ自分の状態を聞かされました。
偶々3月9日に、外来の私を検査入院させてくださった肝臓の名医と言われていたお医者さんが、しばらくしてポツリポツリと話す入院時の私の検査結果は、そのお医者さんでも見たこともなく、計測誤差を考えても信じられないほど肝機能が悪化している状態だったといいます。

「儲かったと思って生きてください!」。それが、その名医の別れ際の言葉でした。
余談ですが、後年、美空ひばりが入院していたのは福岡済生会病院でした。

 

今思うと、あの時の私があの時の人間として死んだとすれば、今の自分とは随分違う人間が死んだことになるなという感覚になります。確かにあの時の私がいて今の私もいるけれど、老化という現象を横に置いても随分違う今の自分がいると感じています。
あの頃の自分を懐かしくも思い、こんなに違う自分がいることに驚きます。

ただ、あの時死んでいたら今の私はいないのも確かです。
間違いなく身体や心、記憶などに連続性はあるけれども、あの時から今までの30年以上の時間の記憶が断片的過ぎて、その時々の自分を覚えていないだけなのかも知れません。

あの時から今に至るまでに私がしてきたことは、体験と経験に過ぎません。
今の私になるために、これまでがあったといえます。
今のために、過去があったということなのかも知れません。

25歳から余生を生きてきた私は、多分それ以前よりも何千倍・何万倍もの人と出会い、会話をし、移動し、いくつかの土地で生活をしてきました。

それは仕事を通じてなされることが多かったけれど、人間の本質的なものを学び、気づいたのは何からだったのだろう。
私の場合、飛び込んでくるメッセージが多かったように思います。
それは、以下のような私なりの解というか、20年以上の間、その問いに対しこの答えを凌駕するものがなかったといういい方が適切です。

Q:どうのように生きるのか?
A:自分らしく。

Q:人生とは?
A:体験である。

Q:自分とは?
A:わからない。

Q:では、自分らしく生きるとは?
A:自分のことすらわからない自分は、自分の体験を通して自分という輪郭が浮き彫りにされ感覚的に自分を知る。体験を通して少しずつ自分を発見しつつ、違和感のない状態で生きること。

結局、自分の感性に従い生きることになるので、自己の感性を磨き続けることで人生が豊かになるというもののようです。

25歳のあの時に死んでいたら、こんなことに気づかないまま死んでいったことになります。

そう考えると、一人の人間として死ねる状況ではなかったのかも知れません。

長い時間を掛けて熟成されている命というものを感じます。